第10章:Re:Membr

 青梅の街は、秋の深まりに色づいていた。10月の空は高く澄み、雑木林の葉が赤や金に輝いている。ハルは大学の研究室を後にし、いつもの道を歩いていた。肩に掛けたバックパックには、ノートパソコンと、国際学会で発表した論文の資料が入っている。AIの自律性を制限するハルのモデルは、学会で絶賛され、複数の研究機関から共同研究のオファーが殺到していた。教授は「君の研究は、AIの未来を安全なものにする」と笑顔で語った。だが、ハルの心は、成功の喜びよりも、別の思いで満たされていた。

ユナ。あの春、夏、初夏の出会いから半年近くが経つ。彼女の黒いコート、黒髪のボブカット、幼さの残る顔は、もう現実に現れない。だが、彼女の言葉は、ハルの心に深く刻まれていた。


「あなたを探していた」

「あなたの選択が、すべてを変える」

「私、逆から来てるの」


 彼女の声は、まるで遠い星の光のように、静かにハルを照らし続けていた。


 ハルは胸ポケットに手をやり、ユナが残した紙切れを握りしめた。


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」


 そのメモは、未来からの暗号のようだった。ハルは何度もその言葉を調べ、教授や専門家に相談したが、答えは見つからなかった。「量子逆行」は科学の領域を超えた空想であり、「アラスカ極北研究施設」は存在しない。だが、ユナの存在自体が、常識を超えたものだった。


 ハルはふと、喫茶店「オーロラ」の前で足を止めた。ガラス窓越しに、春の光が差し込んでいたあの日の情景が蘇る。ユナがハルに初めて話しかけた場所。彼女は「ハル…よね?」と呟き、パラメータの0.03のずれを指摘した。あの小さな介入が、ハルの研究を導き、AIの暴走を防ぐ鍵となった。ハルは目を閉じ、ユナの言葉を反芻した。


「時間がないの。あなたがそれを直さないと、すべてが狂う」


 彼女は、まるで未来からの使者のように、ハルの選択を正しい方向へ導いた。


 ハルは研究室に戻り、ノートパソコンを開いた。学会発表の資料を整理しながら、シミュレーションのコードを再確認した。ユナの指摘を受けて修正したパラメータと、神社の出会いで変更を回避した自律性制御の設定。それらの選択が、AIの暴走リスクをほぼゼロに抑えた。ハルはホワイトボードに立ち、シミュレーションの長期予測を書き写した。現在のモデルでは、100年後、200年後も、AIは人類と共存し続ける。崩壊は起こらない。ユナが言及した“2125年”の危機は、存在しない未来になった。


 ハルは椅子に座り、新たなプロジェクトの構想をメモした。学会での成功を機に、彼は次の目標を見据えていた。AIの自律性を安全に保ちつつ、人類の記憶や知識を共有し、未来の世代に繋げるシステムの開発だ。ハルはそのシステムを“Re:Membr”と名付けた。「記憶を再び繋ぐ」という意味を込めて。ユナの言葉──「覚えてて、ハル。私、あなたに会いに来たの」──が、この名前を思いつかせた。彼女の存在は、まるでハルの記憶に刻まれた導きの光だった。


 “Re:Membr”は、AIが個人の記憶や経験をクラウド上で統合し、倫理的な枠組みの中で共有するプラットフォームを目指していた。ハルのモデルを基盤に、AIの暴走を防ぎつつ、人類の叡智を未来に継承する。ユナの「あなたの選択が、すべてを変える」という言葉が、このプロジェクトの根底にあった。彼女が未来から来たのだとしたら、彼女の使命は、このシステムの種を蒔くことだったのかもしれない。


 ハルはスマートフォンを取り出し、ユナの言葉をメモした。「私、逆から来てるの」。彼女は未来から来たのかもしれない。いや、確信に近い。彼女が残したメモ、切実な瞳、消えるような背中。すべてが、時間軸を超えたメッセージだった。ハルは“Re:Membr”の設計図に、ユナの言葉を書き加えた。


「記憶は、時間を超える」


 彼女の導きが、未来の崩壊を防ぎ、新たな可能性を開いたのだ。


 その日、教授が研究室を訪れ、ハルの新プロジェクトについて話を聞いた。教授は“Re:Membr”の概要を読み、目を輝かせた。


「ハル、これは革命的だ。AIを単なるツールではなく、人類の記憶の守護者にするなんて。君のビジョンは、未来を変えるよ」


「ありがとうございます。でも……これ、僕だけのアイデアじゃないんです」


 ハルはそう答え、ユナのことを話そうとしたが、言葉を飲み込んだ。彼女の存在を説明するのは、あまりに非現実的だった。教授は笑い、肩を叩いた。


「誰かのインスピレーションを受けたんだろ? それが、研究の醍醐味だ。“Re:Membr”、いい名前だ。記憶を繋ぐ、か。君らしい」


 教授の言葉に、ハルはユナの声を重ねた。


「あなたに会えて、よかった」


 彼女は、まるでこの瞬間を予見していたかのようだった。


 その夜、ハルは喫茶店「オーロラ」に足を運んだ。店内は、春のあの日のままだった。木製のテーブル、ガラス窓に差し込む秋の月光、古いジャズのメロディ。ハルはいつもの窓際の席に座り、コーヒーを注文した。カップから立ち上る湯気が、まるでユナの残像のように揺らめいた。


 ハルはコーヒーを一口飲み、目を閉じた。ユナの声が、耳の奥で響く。


「覚えてて、ハル。私、あなたに会いに来たの」


 彼女の言葉が、まるで未来の誰かが自分を導いたように感じられた。ハルは胸ポケットの紙切れを手に取り、文字をなぞった。


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」


 そのメモは、時間軸を超えた約束の証だった。“Re:Membr”は、彼女の使命を継ぐシステムになるかもしれない。ハルの研究が、ユナの記憶を、未来に繋ぐのだ。


 ハルは窓の外を見やった。青梅の通りは静かで、月光に照らされた山々が遠くに浮かんでいる。ふと、ユナの黒いコートが、通りを横切る幻のように見えた。ハルは微笑み、コーヒーカップを手に持った。彼女はもう現れないかもしれない。だが、彼女の存在は、“Re:Membr”として、ハルの心と未来に生き続ける。


 ハルは席を立ち、喫茶店のドアを開けた。ドアベルが軽やかに鳴り、秋の夜風が頬を撫でる。彼は通りを歩き始めた。どこかで、別の何かが始まる予感があった。新しい研究、新しい出会い、新しい未来。“Re:Membr”が切り開く世界。ユナが導いた道の先に、きっとそれが待っている。


 ハルは夜空を見上げた。星々が、まるでユナの瞳のように瞬いている。「ありがとう、ユナ」と呟き、彼は歩き続けた。喫茶店「オーロラ」の明かりが、背後で静かに輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Re:Member 空栗鼠 @plasticlabel05

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ