第9章:崩壊しない未来

 青梅の街は、夏の盛りを迎えていた。7月の陽光がアスファルトを熱し、蝉の声が木々の間を響き合っている。ハルは大学の研究室で、ノートパソコンの画面を見つめていた。AIの自律性を制御するモデルの最終シミュレーション結果が、安定した曲線を描いている。ユナとの出会いから3か月、彼女の言葉と行動が、ハルの研究に大きな影響を与えていた。


 ユナはもう現れない。あの神社での最後の出会い──彼女が「これはあなたにとっての最後で、私にとっての始まり」と告げた瞬間から、彼女の黒いコートも、黒髪のボブカットも、幼さの残る顔も、ハルの前に姿を見せなくなった。だが、彼女の声は、耳の奥でこだまのように響き続けていた。


「あなたの選択が、すべてを変える」


 その言葉が、ハルの研究を突き動かしていた。

 ハルは胸ポケットから、あの紙切れを取り出した。


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」


 ユナが残したメモは、まるで未来からの暗号のようだった。ハルは何度もその言葉を調べ、教授や同僚に相談したが、答えは見つからなかった。“アラスカ極北研究施設”は存在せず、“量子逆行”は科学の領域を超えた空想にしか思えなかった。だが、ユナの存在自体が、常識を超えたものだった。


 ハルは研究室のホワイトボードに立ち、ユナの言葉を書き出した。


「パラメータの設定、0.03ずれてる」

「あなたの選択が、すべてを決める」

「私、逆から来てるの」


 彼女の言葉は、まるでパズルのピースのようだった。そして、そのピースが、ハルの研究とどう繋がるのか、ようやく輪郭が見え始めていた。


 ハルの研究は、AIの自律性を制限する新しいモデルの構築に焦点を当てていた。量子コンピュータを用いたAIは、理論上、無限の可能性を持つが、制御を誤れば暴走のリスクを孕む。教授は、かつて「君のモデルは、AIの暴走を防ぐ鍵になるかもしれない」と語った。ユナの介入は、その鍵をより明確にしていた。


 ハルはノートパソコンを開き、シミュレーションのコードを再確認した。ユナが最初に指摘したパラメータの0.03のずれは、モデルの安定性に大きな影響を与えていた。その修正後、ハルはさらなる最適化を進めたが、重要な選択を迫られた瞬間があった。神社の出会いで、ユナが「あなたの研究、間違えないで」と告げた後、ハルはAIの自律性を高めるパラメータを変更するかどうか迷った。教授は「効率を優先するなら変更すべきだ」と助言したが、ハルは直感に従い、値をそのままにした。


 その選択が、思わぬ結果を生んでいた。ハルは最近、シミュレーションの長期予測を実行した。結果は驚くべきものだった。パラメータを変更した場合、AIは短期的には効率が上がるが、10年後、20年後に暴走の確率が急上昇する。だが、ハルが選んだ設定では、AIの自律性が制限され、暴走リスクがほぼゼロに抑えられていた。


 ハルはホワイトボードに、シミュレーションのグラフを書き写した。変更した場合の曲線は、急激な上昇を見せる。一方、現在の設定では、安定した直線が続く。「ユナ……あなた、知ってたんだ」。ハルは呟き、彼女の言葉を思い出した。


「あなたがそれを直さないと、すべてが狂う」


彼女の指摘と、ハルの無意識の選択が、AIの未来を決定づけたのだ。


 その日、教授が研究室を訪れ、シミュレーション結果を確認した。教授は眼鏡を外し、グラフをじっと見つめた。


「ハル、これは……驚くべき成果だ。君のモデルは、AIの暴走を根本から防ぐ可能性がある。国際学会での発表は、業界に衝撃を与えるぞ」


「ありがとうございます。でも……これ、僕だけの力じゃないんです」


「謙遜するなよ。君の選択が、ここまで導いたんだ。未来の社会は、君に感謝するだろう」


 教授の言葉に、ハルはユナの声を重ねた。


「未来を変える」


 彼女は、まるでこの瞬間を予見していたかのようだった。


 その夜、ハルは研究室を後にし、青梅の街を歩いた。夏の夜風が頬を撫で、遠くの山々が星空に溶けている。ハルは喫茶店「オーロラ」の前を通りかかり、立ち止まった。ガラス窓に映る自分の顔が、なぜかユナの瞳に重なった。あの春の日、彼女がここでハルに話しかけた。パラメータの指摘、メモの残留、未来への警告。すべてが、ハルの選択を導くためのものだった。


 ハルはスマートフォンを取り出し、ユナの言葉をメモした。


「私、逆から来てるの」


 彼女は未来から来たのかもしれない。いや、確信に近い。彼女が言及した“2125年”は、AIの暴走が引き起こすかもしれない崩壊の時代なのかもしれない。だが、ハルの研究が完成した今、その崩壊は起こらない。ユナの介入が、未来を変えたのだ。


 ハルは胸ポケットの紙切れを握りしめた。


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」


 このメモは、ユナがハルに残した最後のメッセージだった。彼女は、なぜそんな遠い未来から来たのか。なぜ、ハルを選んだのか。答えはまだわからない。だが、ハルは確信していた。ユナの使命は、崩壊しない未来を創ることだった。そして、その未来は、今、ここに存在している。


 ハルは喫茶店の前を離れ、夜の街を歩き続けた。ユナの黒いコート、ボブカットの髪、幼さの残る顔が、脳裏に浮かんだ。彼女はもう現れないかもしれない。だが、彼女の言葉は、ハルの心に永遠に刻まれていた。


「あなたを探していた」


 その言葉は、まるで星の光のように、遠くからハルを照らし続けていた。

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