第8章:タイムゼロ
ユナの意識は、時間の奔流を遡り続けていた。青白い光の裂け目を通るたび、彼女の存在は薄れ、まるで風に散る砂のように崩れていった。記憶は霧に溶け、感情は凍った湖の底に沈んだ。彼女の体は、時間逆行の負荷に耐えきれず、すでに限界を超えていた。だが、どれだけ時間が彼女を削っても、ただ一つの名前だけが、彼女の心に刻まれたままだった。「ハル・ナグモ」。その名前は、彼女を過去へと導く最後の灯火だった。
逆行は終わりなき旅だった。アラスカの施設、クロノス・カタストロフ、量子逆行プロジェクト——それらは、遠い神話のように霞んでいた。家族の顔、故郷の風景、彼女自身の名前さえも、時間の圧力に押しつぶされ、跡形もなく消え去った。だが、ハルの名前だけは、なぜか消えなかった。彼女の唇は、いつもその名前を呟いていた。
「ハル……」
ユナの意識が最初に安定したのは、2019年8月、青梅の小さな公園だった。夏の陽射しが木々の葉を透かし、蝉の声が響き合っている。彼女は黒いコートを羽織り、黒髪のボブカットが肩に揺れる。幼さの残る顔は、まるで幽霊のように青白く、瞳には虚ろな光が宿っていた。彼女の記憶は、すでにほとんど失われていた。なぜここにいるのか、誰を探しているのか、頭の中は白い霧に覆われている。だが、胸の奥で燃える一点だけが、彼女を突き動かしていた。
公園のベンチに、制服姿の少年が座っていた。ハル・ナグモ。高校生の彼は、教科書を開き、シャーペンを手に何かを書き込んでいた。ユナの心が、かすかに震えた。彼女はハルに近づき、震える声で話しかけた。
「ねえ……暑いね、今日」
ユナの声は、まるで風に消えるようだった。ハルが顔を上げ、彼女を見た。高校生のハルは、眼鏡をかけ、髪が少し長めで、どこかあどけなさが残る顔立ちだった。彼は眉をひそめ、ユナをじっと見つめた。
「え、はい、そうですね……あの、どちら様ですか?」
ユナは微笑もうとした。だが、彼女の顔は硬く、笑顔はすぐに消えた。彼女はハルの隣に腰を下ろし、言葉を続けた。
「私は……ユナ。あなた、名前は?」
「ハルです。南雲晴。えっと、ユナさん、どこかで会ったことあります?」
ハルの声に、ユナの頭が軋んだ。会ったこと? 彼女の記憶には、そんな場面は存在しない。いや、彼女にとって、それは「未来」だった。だが、彼女はただ、何気ない会話をしたかった。ハルと、普通に話す時間を、少しでも感じたかった。
「ううん、初めて。ねえ、ハル、夏休みの宿題? 私も、昔、夏休みって好きだった……」
ユナの言葉は、まるで遠い記憶を拾い集めるようだった。ハルは少し困惑しながらも、答えた。
「そうですね、数学の課題やってます。ユナさん、近くに住んでるんですか?」
ユナは首を振った。彼女の視線は、公園の木々に、蝉の声に、遠くの青い空に彷徨った。彼女の心は、すでに崩れかけていた。だが、ハルの声を聞くと、胸の奥に小さな温かさが広がった。
「遠くから来たの……ハル、優しいね。話してくれて、ありがとう」
ユナの声には、感情の欠片しか残っていなかった。彼女は席を立ち、公園を後にした。ハルが何か言いかけたが、彼女の意識は再び時間の奔流に飲み込まれた。
ユナの次の逆行は、2016年10月、青梅の住宅街だった。秋の風が木の葉を揺らし、夕陽がオレンジ色に街を染めている。彼女の黒いコートが風に揺れ、記憶はさらに曖昧になっていた。彼女は自分が誰なのか、なぜここにいるのか、ほとんど認識できなかった。だが、ハルの名前だけは、かすかに心に響いていた。
通学路で、中学生のハルとすれ違った。彼は真新しいリュックを背負い、友達と笑いながら歩いていた。ユナは立ち止まり、彼を見つめた。ハルの笑顔が、夕陽に照らされて輝いている。彼女の胸が締め付けられた。なぜか、知っている気がした。だが、記憶は霧に溶け、彼女にはそれを確かめる術がなかった。
ユナはハルに近づこうとしたが、足が動かなかった。彼女の意識は、まるで壊れたガラスのかけらのように、バラバラに散らばっていた。彼女はただ、ハルが遠ざかる背中を見つめた。黒いコートの裾が、秋の風に寂しく揺れた。彼女の唇が、かすかに動いた。
「ハル……」
だが、その声は誰にも届かなかった。ユナの意識は、再び光の裂け目に飲み込まれた。
さらに逆行したユナは、2013年4月、青梅の小学校の校庭にたどり着いた。春の桜が満開で、入学式を終えたばかりの子供たちが笑い声を上げている。ユナは校門の外、桜並木の影に立っていた。彼女の意識は、ほとんど自分自身を認識できなくなっていた。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、頭の中は白い霧に覆われていた。
校庭で、小学生のハルを見つけた。ランドセルを背負い、母親と手を繋いで歩く小さな少年。ユナの視線が、彼に注がれた。彼女はハルが誰なのか、自分が何者なのか、理解できなかった。だが、なぜか、胸の奥が熱くなり、頬を涙が伝った。彼女は手を伸ばし、桜の花びらが舞う中、ハルを遠くから眺めた。
「あなた……誰?」
ユナの声は、まるで風に溶けるようだった。彼女の涙は止まらず、桜の花びらと共に地面に落ちた。彼女の心は、完全に崩れていた。記憶も、使命も、すべてが霧の彼方に消えていた。だが、ハルを見るたび、彼女の魂は震えた。説明できない感情が、彼女を包んだ。
ユナの逆行は、さらに遡った。2010年、2005年、2000年——彼女の意識は、時間を超えて過去へと落ち続けていた。記憶は完全に失われ、彼女の存在は、まるで幽霊のように薄れていった。ハルの名前さえも、彼女の唇から消えていた。彼女の体は、時間の圧力に耐えきれず、砂のように崩れ始めた。
そして、ユナは“タイムゼロ”に到達した。時間の終着点であり、時間の果て。そこには、何もなかった。光も、音も、色も、形も存在しない、完全な無の空間。ユナの意識は、最後の瞬間、ハルの笑顔を思い出した。小学生のハルが、桜の下で笑う姿。彼女の唇が、かすかに動いた。
「ハル……」
その瞬間、ユナの存在は消滅した。彼女の体は、光の粒子となって無の中に溶け、時間の奔流に飲み込まれた。彼女の使命は、2025年でハルの選択を導くことで果たされていた。だが、彼女自身は、その意味を知ることなく、時間の果てで消えた。
ユナの涙は、タイムゼロの中で、かすかな光となって瞬いた。それは、まるで星の最後の輝きのように、静かに消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます