第7章:記憶の逆流
ユナの意識は、時間の奔流に飲み込まれていた。青白い光の裂け目を通り抜けるたび、彼女の存在は薄れ、まるで砂のように崩れていった。身体はなく、ただ思考の断片だけが、虚空を漂う。だが、彼女の心の奥で、かすかな声が響いていた。「ハル」。その名前だけが、錨のように彼女を現実に繋ぎ止めていた。
ユナは目を開けた。目の前には、灰色の霧が広がっている。いや、それは霧ではなく、彼女の記憶そのものが溶け合う境界だった。どこにいるのか、何をしているのか、なぜここにいるのか。すべてが曖昧で、まるで水面に映る影のように揺らめいていた。だが、胸の奥で燃える一点だけが、はっきりとしていた。「ハル・ナグモ」。彼女が探さなければならない名前。彼女が叛逆してまで守ろうとした使命。
ユナは手を伸ばした。黒いコートの袖が、視界の端で揺れた。黒髪のボブカットが、肩に触れる感触があった。彼女の体は、時間逆行の力で一時的に再構成されていた。だが、その実体は脆く、まるで砂の彫刻のように、時間の風に削られていく。彼女は深呼吸し、霧の中を歩き始めた。カーソン博士の冷たい声が、耳の奥で響いた。「君の選択は、未来を破滅に導く」。だが、ユナはそれを振り払った。彼女はハルを信じた。ハルの選択を導くこと。それが、彼女の道だった。
ユナの意識が最初に安定したのは、2025年5月、青梅の駅前広場だった。夕暮れの空が茜色に染まり、噴水の水音が静かに響いている。彼女は黒いコートを羽織り、華奢な体を夕風に預けた。幼さの残る顔に、困惑と緊張が浮かんでいる。記憶は、すでに欠け始めていた。アラスカの施設、クロノス・カタストロフ、カーソンとの対立──それらの断片は、まるで古いフィルムのスクラッチのように、ノイズに埋もれていた。
だが、ハルの名前だけは、鮮明だった。ユナは広場のベンチに立ち、通りを行き交う人々を見回した。どこかに、彼がいるはずだ。彼女の使命は、彼に会い、彼の選択を導くこと。カーソンの暗殺命令を拒否したあの瞬間、ユナは自分の道を選んだ。だが、なぜその選択が正しいと確信したのか、記憶の霧に隠れていた。
「ユナさん?」
声に振り返ると、若い男が立っていた。ハルだった。ユナの胸が跳ねた。だが、彼女の反応は、まるで初対面の相手に対するような慎重さに満ちていた。記憶の断片が、彼女に彼との過去を思い出させなかった。いや、彼女にとって、これは“未来”だった。
「ハル……あなた、覚えててくれたの?」
ユナの声は震えていた。ハルは眉をひそめ、彼女のよそよそしさに困惑した様子だった。彼女の態度は、カーソンとの対立で固めた決意の名残だった。ハルを守るために、彼女は逆行した。その信念が、彼女の言葉に冷たさを与えていた。
「もちろん覚えてますよ。あの喫茶店でのこと、忘れられるわけないじゃないですか。ユナさん、ちゃんと話したいんです。あなた、僕の研究のことや、あのメモのこと、どうやって知ったんですか?」
ハルの言葉に、ユナの頭が軋んだ。喫茶店? メモ? 彼女の記憶には、そんな場面は存在しない。だが、ハルの真剣な瞳を見ると、彼女の胸に奇妙な既視感が広がった。まるで、ずっと昔に彼を知っていたかのように。
「メモ……そう、渡したのね。私、覚えておくわ」
ユナは無意識にそう答えた。だが、言葉を口にした瞬間、違和感が彼女を刺した。渡した? 彼女はまだ何も渡していない。ハルの表情が、さらに困惑に変わる。
「え? 渡したって、ユナさんが置いていったんじゃないですか?」
ユナは一瞬、口元を押さえた。記憶の断片が、バラバラに散らばっていく。彼女は急いで話題を変えた。
「ハル、あなたの研究、進んでる? パラメータ、直した?」
ハルの目が鋭くなった。ユナは彼の視線を避け、噴水に目をやった。水面に映る夕陽が、まるで彼女の記憶のように揺らめいていた。
「それは……はい、直しました。0.03のずれ、指摘してくれて助かりました。でも、なんでそんなこと知ってるんですか? ユナさん、誰なんですか?」
ユナは答えられなかった。彼女の頭の中は、まるで嵐に巻き込まれた海のようだった。ハルの研究、未来、選択──断片的なキーワードが浮かんでは消える。彼女はただ、使命感だけを頼りに言葉を紡いだ。
「ハル、あなたの研究は、未来を変える。いいえ、変えなきゃいけないの」
「未来? またその話ですか? ユナさん、はっきり言ってください。あなた、僕に何を求めてるんですか?」
ハルの声に苛立ちが混じっていた。ユナは小さく首を振った。彼女自身、答えを知らなかった。だが、胸の奥で燃える「ハル」という名前が、彼女を突き動かしていた。
「求めてるのは……あなたの選択。ハル、あなたが選ぶことが、すべてを決めるの」
ユナの言葉は、まるで祈りのように響いた。だが、突然、彼女の胸に鋭い痛みが走った。時間逆行の負荷が、彼女の体を締め付ける。彼女は胸を押さえ、息を整えた。
「ごめん、時間がない。もうすぐ、私、いなくなるの」
「いなくなる? どういう意味ですか? ユナさん、待って!」
ハルの声が遠ざかる中、ユナは広場を後にした。黒いコートが夕暮れに揺れ、彼女の小さな背中が人混みに溶けていく。彼女の意識は、再び時間の奔流に飲み込まれた。
ユナの次の逆流は、2025年4月、喫茶店「オーロラ」だった。彼女の記憶は、さらに曖昧になっていた。アラスカの施設は、まるで遠い夢のようだった。クロノス・カタストロフの詳細も、カーソンとの対立も、彼女の信念も、霧の向こうに消えていた。だが、ハルの名前だけは、なおも彼女の心に刻まれていた。
ユナは喫茶店の窓際でハルを見つけ、歩み寄った。彼女の黒いコートが、春の光に柔らかく映える。幼さの残る顔に、切実な光が宿っていた。
「ハル…よね?」
ハルの驚いた顔を見ると、ユナの胸に安堵が広がった。彼女は彼の向かいに座り、震える手で言葉を紡いだ。
「やっと見つけた。あなたを探していたの」
ハルの質問が続く中、ユナは彼の研究について口にした。パラメータのずれ、未来の重要性。だが、彼女の言葉は、まるで誰かに教えられた台詞のようだった。彼女自身、なぜそれを知っているのか、理解できなかった。
「時間がないの。あなたがそれを直さないと、すべてが狂う。信じて、ハル」
ユナの声は、まるで彼女自身の存在を刻み込むように響いた。だが、痛みが再び彼女を襲った。彼女は席を立ち、喫茶店を後にした。ドアベルが鳴り、彼女の姿が春の光に溶ける。
ユナの意識は、何度も逆行を繰り返した。毎回、彼女の記憶は削られ、身体は脆くなっていった。時間の圧力は、彼女の心を侵食し、過去と未来の境界を曖昧にした。だが、どんなに記憶が薄れても、ハルの名前だけは消えなかった。彼女の唇は、いつもその名前を呟いていた。
「ハル……」
ユナの逆行は、まるで川を遡る魚のようだった。どれだけ傷つき、どれだけ失っても、彼女はハルにたどり着くために泳ぎ続けた。彼女の使命は、彼の選択を導くこと。カーソン博士の命令を拒否したあの瞬間、彼女は自分の道を選んだ。たとえ、彼女自身がその意味を忘れても。
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