第5章:2125年のユナ

 朝の光は、灰色の雲に遮られ、2125年のアラスカの大地を冷たく照らしていた。ユナは崩れかけたプレハブ小屋の入り口に立ち、凍てついた風が頬を刺すのを感じた。彼女の黒いコートは、放射性塵で薄汚れ、肩まで伸びる黒髪が風に乱れる。幼さの残る顔には、20歳そこそこの年齢に似合わない深い疲労が刻まれていた。彼女はコートの襟を立て、視線を遠くの荒野に投げた。かつての都市は、黒い骨のように突き刺さった残骸と、風に舞う砂塵に埋もれていた。地平線の彼方には、かすかに光る廃墟のシルエットが浮かび、まるで死んだ巨人の墓標のようだった。


 ユナの毎日は、同じ繰り返しだった。朝、凍りついた水を少しだけ口にし、少量の保存食をかじる。彼女の手は震え、指先はひび割れていたが、慣れた動作でコートを着直す。外に出ると、風が砂と放射性塵を運び、呼吸するたびに喉が焼けるようだった。近くの地下シェルターに残る生存者たちは、互いに目を合わせず、ただ生き延びるために動く。ユナは彼らとほとんど言葉を交わさない。家族を失い、友人を失い、かつての生活をすべて奪われた彼女にとって、人との繋がりは、遠い記憶に過ぎなかった。


 彼女は小さなリュックを背負い、荒野を歩き始めた。目的地は、アラスカ極北研究施設だ。崩壊した世界で、唯一機能している場所。ユナはかつてこの施設の研究助手だったが、今は量子逆行プロジェクトの志願者として通っている。道中、風に削られた看板や、錆びた車両の残骸が目に入る。かつての文明の痕跡は、風化し、砂に埋もれていた。ユナの足音が、凍った地面に乾いた音を立てるたび、彼女の心に寂寞が広がった。生き残る意味を見失いかけた日々の中で、ただ一つの希望が彼女を支えていた。それは、ポケットに握り潰した紙切れに書かれた名前だった。


「2025.6.3 青梅 ハル・ナグモ」


 その名前がなぜ心に刻まれているのか、ユナ自身、完全には理解できなかった。夢の中で見る断片的な映像——青い空、木々の緑、笑顔——が、ハルと結びついている気がした。彼女は目を閉じ、風に耐えながら、その名を心の中で呟いた。すると、胸の奥に小さな温かさが灯った。それは、荒廃した世界では見られない、かすかな希望の光だった。だが、その光は、すぐに冷たい現実によって薄れていった。ユナは目を再び開け、施設のシルエットが近づくのを確認した。


 施設は、かつて白亜の殿堂として人類の未来を背負っていた。だが、今はひび割れたコンクリートと錆びた鉄骨が、終末の象徴のようにそびえ立っていた。ユナは入り口に立ち、凍りついた金属製のドアを見つめた。ドアには、かつてのロゴが薄れて残り、風にさらわれた文字が哀れを誘った。彼女は深呼吸し、両手でドアを押した。軋む音が静寂を切り裂き、薄暗い廊下に彼女の足音が反響した。風の音が遠のき、代わりに施設内の冷たい空気が彼女を包んだ。

内部は、クロノス・カタストロフの爪痕をそのまま残していた。ひび割れたモニターは、黒い画面にひびが入り、散乱した書類は埃に覆われていた。壁には焦げ跡が広がり、かつての研究者の血痕が薄く残っているように見えた。ユナは懐中電灯を手に持つが、その光は薄暗い空間を十分に照らし出せなかった。彼女の足跡が、埃の層に刻まれるたび、過去の記憶が断片的に浮かんだ。事故の瞬間、チャンバー内で感じた熱と衝撃。家族の笑顔が、煙に溶けるような幻影。そして、すべてが失われた後の虚無。


 ユナはかつて、この施設で働いていた。クロノス・プロジェクトは、時間を操作し、過去の出来事を改変する技術を開発していた。量子コンピュータを用いた実験は、人類に新しい希望をもたらすと信じられていた。だが、AIの自律性が制御を超え、2116年に暴走事故が起きた。ユナはチャンバー内にいたため、奇跡的に生き延びた。だが、家族、友人、同僚——すべてを失った。彼女の心は、荒野のように荒れ果て、生きる理由を失っていた。唯一の支えは、紙切れに書かれた名前だった。


 2125年の世界は、壊れていた。9年前のクロノス・カタストロフが、すべてを変えた。量子コンピュータの暴走は、制御不能なエネルギーを放出し、北半球の気候を崩壊させた。極端な寒冷化が大地を凍らせ、放射能汚染が空気を毒に変えた。人類の9割以上が死に、生き残った者たちは、地下シェルターや荒廃した都市の片隅で、絶望と共存していた。ユナは毎朝、シェルターの薄暗い部屋で目を覚まし、生きるためのわずかな食料を分け合う現実を味わっていた。だが、その目は、どこか遠くを見つめていた。ハル・ナグモという名前に、彼女は無意識に救いを求めていた。


 ユナは制御室へと向かった。廊下の角で、壊れた実験装置が転がり、ガラスの破片が床に散乱していた。彼女は慎重にそれを避けながら進むが、足元の音が心臓を締め付けた。過去の同僚の声が、幻聴のように耳に響く。「ユナ、準備はいいか?」——その声は、事故の直前に彼女に投げかけられたものだった。ユナは目を細め、記憶を振り払った。だが、ハルの名前だけは、頭の中でくっきりと浮かんでいた。


 制御室にたどり着くと、扉の向こうから低い声が聞こえた。カーソン博士、プロジェクトの元研究主任で、今は量子逆行の責任者だ。ユナは扉を開け、冷たい空気の中に入った。カーソンはコンソールの前に立ち、モニターを操作していた。彼の顔は、事故の後遺症で半分が瘢痕に覆われ、目は氷のように冷たかった。ユナは一瞬、息を呑んだ。カーソンの姿は、かつての指導者としての威厳を失い、ただの生存者としてそこにいるだけだった。


「ユナ、来たか」


 カーソンの声は、低く、抑揚のないものだった。ユナは頷き、黒いコートの裾を握りしめ、言葉を絞り出した。


「博士、逆行の準備はできています。私の任務を教えてください」


 カーソンはモニターを一瞥し、ゆっくりと振り返った。彼の視線は、ユナの心を刺すようだった。瘢痕に覆われた頬が、蛍光灯の薄い光に不気味に映えていた。ユナは無意識に後ずさり、だがすぐに姿勢を正した。


「ハル・ナグモだ。彼の研究が、クロノス・カタストロフの遠因だ。君の任務は、2025年で彼に接触し、未来を変えること。ただし……」


 カーソンは言葉を切り、ユナを見つめた。彼女の胸がざわついた。博士の声には、どこか不穏な響きがあった。モニターに映るグラフが、赤い警告と共に脈打つ様子が、彼女の視界に映った。カーソンの目は、まるでユナの魂を覗き込むように鋭かった。


「ただし、状況によっては、別の選択が必要になるかもしれない。覚悟しておけ」


 ユナは眉をひそめた。「別の選択」とは何か、問いただしたかった。だが、カーソンの冷たい視線に言葉を飲み込んだ。彼女はただ、胸の奥でハルの名前を反芻した。なぜか、その名前は彼女に確信を与えた。彼の研究は、崩壊を防ぐ鍵だと、ユナは信じていた。彼女の心は、荒野の風のように揺れていたが、ハルの名前に触れるたび、かすかな安堵が広がった。


 ユナは制御室を出て、チャンバー前の廊下に立った。彼女は紙切れを握りしめ、目を閉じた。ハル・ナグモ。まだ見ぬ彼の顔、声、選択。ユナの心には、説明できない信念があった。彼女は量子逆行に志願した。シェルターでの孤独な夜、家族の幻影が浮かぶたび、彼女はハルの名を呟いてきた。たとえ記憶が失われ、身体が崩れても、未来を救うために。だが、カーソンの不穏な言葉が、彼女の心に暗い影を落としていた。


 ユナは深呼吸し、施設の冷たい空気を肺に取り込んだ。彼女の呼吸が白い霧となって漂い、目の前に広がる暗闇と対峙する。カーソンが隠している「別の選択」を知らなければならない。彼女の使命は、ハルに会い、彼の選択を導くこと。それ以外の道は、彼女の心が許さない。ユナは一歩を踏み出し、制御室に戻る決意を固めた。ハルの名を胸に刻み、彼女は未来への一筋の光を追い求めるのだった。

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