第3章:彼女の残像

 初夏の気配を帯び始めていた6月。朝の空気にはまだ涼しさが残り、大学のキャンパスに続く並木道では、桜の葉が緑に変わって風に揺れている。ハルは研究室に向かう道を歩きながら、胸ポケットに手をやった。あの紙切れ──


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」と書かれたユナのメモ──は、今も彼の肌に触れるたびに奇妙な重みを放っていた。


 ユナと最後に会った広場での出来事から、2週間が経っていた。あの日以来、彼女は姿を見せていない。ハルは喫茶店「オーロラ」に何度も足を運び、駅前の広場を何気なく通り過ぎてみたが、黒いコートをまとった華奢な女性の姿はどこにもなかった。ユナの存在は、まるで春の靄のように溶け去り、しかしその残像はハルの心に焼き付いて離れなかった。

 

 研究室に着くと、ハルはバックパックからノートパソコンを取り出し、電源を入れた。画面には、AIの自律性を制御するシミュレーションの最新結果が表示されている。ユナの指摘したパラメータの修正後、モデルは飛躍的に安定し、教授からは「このまま進めれば、国際学会で発表できる」と激励されていた。だが、ハルの頭の中は、研究の成功よりも、ユナの言葉で埋め尽くされていた。


「あなたの選択」

「未来を変える」

「もうすぐ、いなくなる」


 彼女の声は、まるで耳の奥でこだまのように響き続けていた。


 ハルはデスクの引き出しを開け、ユナのメモを手に取った。走り書きの文字は、まるで別の時間から持ち込まれた暗号のようだった。彼はスマートフォンを取り出し、メモに書かれた「アラスカ極北研究施設」を再び検索した。だが、結果は前回と同じだった。観光地としてのアラスカや、気候変動に関する研究施設の情報は出てくるが、「極北研究施設」という具体的な名称はどこにも見当たらない。「量子逆行」に至っては、科学論文はおろか、フィクションの文脈でもヒットしない。


「2125年3月17日……100年後の話かよ」


 ハルは呟き、苦笑した。だが、ユナの真剣な瞳を思い出すと、笑い事では済まされない気がした。彼女はなぜ、そんな遠い未来のことを口にしたのか。なぜ、ハルの研究を知っていたのか。そして、なぜ「いなくなる」と告げたのか。


 ハルは研究室の机に散らばった資料を整理しながら、ふと、あるフォルダに目を止めた。教授から渡された、過去の量子コンピュータ関連の論文をまとめたものだ。その中に、1枚の写真が挟まっていた。古びたモノクロ写真で、雪に覆われた施設の外観が写っている。施設の看板には、かすれた文字で「Alaska Arctic Research Station」と書かれていた。ハルは息を飲んだ。「アラスカ極北研究施設」とは、この施設のことではないのか?


 写真の裏には、鉛筆で「2045年、プロジェクト・クロノス」と書かれていた。ハルは急いでノートパソコンを開き、「プロジェクト・クロノス」を検索した。だが、ヒットするのはギリシャ神話のクロノスや、時計ブランドの情報ばかり。科学的なプロジェクトとしては、一切の記録がない。ハルは写真を手に持ち、施設のシルエットをじっと見つめた。雪に埋もれた建物、鉄塔のような構造物。どこか、ユナの言葉と繋がるような気がした。


 ハルはデスクに戻り、ユナとの会話を思い返した。彼女の言葉には、いつも曖昧さと切実さが混在していた。「あなたを探していた」「あなたの選択がすべてを決める」。そして、広場でのあの矛盾──ユナは、メモを「渡したのね」と言い間違え、まるでその存在を忘れていたかのようだった。ハルはノートに、ユナの言葉を書き出した。


• 「パラメータの設定、0.03ずれてる」(喫茶店)

• 「あなたの未来に、ほんの少しだけ関わってる」(喫茶店)

• 「もうすぐ、私、いなくなる」(広場)

• 「あなたの選択が、すべてを決める」(広場)


 書きながら、ハルは気づいた。ユナの言葉には、一貫したテーマがある。「未来」と「選択」。彼女は、ハルの研究が未来に影響を与えると言い続けた。だが、その「未来」が具体的に何を指すのか、彼女は決して明かさなかった。


 ハルは研究室のホワイトボードに立ち、ユナの言葉を線で繋いでみた。パラメータの修正、メモ、未来、選択。まるで、点と点を結ぶパズルのようだった。だが、肝心のピースが欠けている。ユナ自身が、そのピースなのかもしれない。


 その夜、ハルは研究室に残り、シミュレーションのコードを再確認した。ユナの指摘した0.03のずれは、確かにモデルの安定性に大きな影響を与えていた。だが、彼女がそのずれを知っていた理由は、依然として謎だった。ハルはコードのコメント欄に、ユナの言葉を書き加えた。


“彼女は未来から来た?”


 冗談半分で書いたメモだったが、キーボードを叩く指が一瞬止まった。


 翌日、ハルは教授に写真を見せ、「プロジェクト・クロノス」について尋ねてみた。教授は眼鏡を外し、写真を手に取って眉をひそめた。


「これは……懐かしいな。2005年頃、北極圏で量子コンピュータの実験施設が計画されたんだ。国際的なプロジェクトだったが、資金難で頓挫した。クロノスって名前は、時間に関する研究のコードネームだったはずだよ」


「時間に関する研究? どんな内容だったんですか?」


 教授は苦笑し、首を振った。


「詳細は知らん。当時、私はまだ学生だったからね。ただ、量子状態の時間操作とか、理論的にはぶっ飛んだ話だったらしい。結局、実現しなかったがね」


 ハルの胸がざわついた。「時間操作」。ユナの「量子逆行」という言葉と、どこか響き合う。教授は写真を返し、肩を叩いた。


「ハル、君の研究に集中しなさい。過去の失敗に気を取られるなよ。君のモデルは、AIの暴走を防ぐ鍵になるかもしれないんだから」


「暴走?」


 ハルが聞き返すと、教授は真剣な目で彼を見た。


「自律AIは、制御を誤れば人類にとって脅威になる。君のモデルは、そのリスクを最小限に抑える可能性がある。未来の社会は、君の選択にかかってるかもしれないぞ」


 教授の言葉に、ハルはユナの声を思い出した。


「あなたの選択が、すべてを決める」


 彼女の言葉と、教授の言葉が、不思議なほど重なった。


 その夜、ハルはアパートに戻り、ベッドに横になった。窓の外では、街灯が静かに瞬いている。ユナの黒いコート、ボブカットの髪、幼さの残る顔が、瞼の裏に浮かんだ。彼女はなぜ、ハルに接触したのか。彼女が残したメモと写真は、100年後の未来と、過去の失敗したプロジェクトを繋ぐ手がかりなのか。


 ハルはスマートフォンを手に取り、ユナの言葉をもう一度書き出した。


「もうすぐ、いなくなる」


 その言葉には、どこか諦めに似た響きがあった。まるで、彼女自身が消えることを知っているかのように。


 ハルは目を閉じ、ユナの残像を追いかけた。彼女の声、彼女の瞳、彼女の言葉。すべてが、まるで未来からのメッセージのように感じられた。そして、そのメッセージが、ハルの研究と、さらには世界の未来に繋がっているのだとしたら──。


 ハルは決意した。ユナの正体を突き止める。そして、彼女が言った「未来」を、自分の目で確かめる。

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