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空栗鼠
第1章:彼女は誰だったのか
東京の郊外にある小さな街、青梅市。街の外れ、雑木林に囲まれた小さな喫茶店「オーロラ」は、春の午後に柔らかな光を浴していた。ガラス窓から差し込む陽光が、磨かれた木製のテーブルにまだらの模様を描いている。
南雲晴(ナグモ・ハル)はいつもの窓際の席に座り、冷めたコーヒーを前にしてノートパソコンを叩いていた。画面には、量子コンピュータのシミュレーション結果が複雑な曲線となって映し出されている。彼の研究は、AIの自律性を制御する新しいモデルの構築に関するものだった。大学院生の身でありながら、指導教授からは「君の理論は世界を変える可能性がある」と期待を寄せられていた。
ハルはキーボードから手を離し、窓の外を見やった。青梅の通りは静かで、遠くの山々が春の靄に溶け込んでいる。通りを歩く人はまばらで、時折、自転車に乗った中学生が笑い声を上げながら通り過ぎる。ハルはふと、コーヒーカップの縁に残る黒いリングを見つめた。もう何時間もここにいる。研究に没頭していると、時間の感覚が曖昧になる。
店のドアベルが軽やかに鳴った。ハルが顔を上げると、若い女性が立っていた。黒いボブカットに、肩まで伸びた髪がさらりと揺れている。黒いコートを羽織り、華奢な体躯にはどこか幼さが残っていた。彼女の顔は、少女と大人の境界を漂うような、つかみどころのない印象を与えた。彼女は店内を見回し、ハルの視線に気づくと、迷いなく歩み寄ってきた。
「ハル…よね?」
彼女の声は低く、どこか懐かしさを帯びていた。ハルは眉をひそめた。見覚えのない顔だった。だが、名を呼ばれたことに奇妙な違和感を覚えた。まるで、ずっと昔にどこかで彼女と会ったような、説明できない既視感が胸の奥でざわめいた。
「え、はい、そうですけど……どちら様ですか?」
彼女は微笑んだ。だが、その笑顔はどこか悲しそうに見えた。彼女はハルの向かいに腰を下ろし、テーブルの上で細い手を組んだ。指先がわずかに震えているのが、ハルの目にとまった。
「やっと見つけた。あなたを探していたの。」
「探してた? あの、すみませんが、どこかで会ったことありますか?」
ハルの問いに、彼女は首を振った。だが、その仕草は否定というより、何かを飲み込むような動きだった。彼女の瞳は、黒いコートの襟に隠れるようにして揺れていた。
「会ったことはない。でも、知ってる。ハル、あなたの研究……とても大切なものになる。」
ハルは背筋に冷たいものを感じた。研究の詳細は、教授と数人の同僚にしか話していない。ましてや、こんな見ず知らずの女性が知っているはずがない。彼女の言葉は、まるでハルの頭の中を覗いたかのように的確だった。
「ちょっと待ってください。僕の研究のことをどうやって? あなた、誰なんですか?」
彼女は一瞬、目を伏せた。まるで言葉を選んでいるかのように。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「私はユナ。あなたの未来に、ほんの少しだけ関わってる人。」
「未来?」
ハルは笑いそうになったが、ユナと名乗った女性の真剣な眼差しに言葉を飲み込んだ。彼女はテーブルの上に置かれたハルのノートパソコンを指差した。画面には、シミュレーションのグラフが静かに脈打っている。
「そのシミュレーション、間違ってるわ。パラメータの設定、0.03ずれてる。確認してみて。」
ハルは目を丸くした。シミュレーションの詳細など、外部の人間が知るはずがない。それに、0.03という数字は、彼が昨夜、教授と議論したばかりの微調整の値だった。彼女がそれを言い当てたことに、背筋がぞくりとした。
「どうしてそんなことを……」
「時間がないの。」ユナはハルの言葉を遮った。
「あなたがそれを直さないと、すべてが狂う。信じて、ハル。」
彼女の声には切迫した響きがあった。ハルは混乱しながらも、ノートパソコンに目を落とした。画面の数値を確認すると、確かに彼女の指摘通り、パラメータが微妙にずれて表示されていた。修正は簡単だが、なぜこの女性がそれを知っているのか、理解できなかった。
「ユナさん、ですよね? あなた、僕の研究をどこで知ったんですか? 何か、説明してください。」
ユナは小さく息を吐き、窓の外を見やった。通りを歩く人々が、まるで別の世界の住人のように遠く感じられた。春の風が木々の葉を揺らし、ガラス窓に淡い影を投げかけていた。
「説明は難しいの。だって、私が今ここにいること自体、説明できないから。」
「どういう意味ですか?」
彼女はハルを見返し、かすかに笑った。だが、その笑顔はすぐに消えた。彼女の瞳には、どこか遠いものを見るような光があった。
「ハル、あなたはまだ気づいていないけど、すべては繋がってる。あなたが選ぶこと、考えること、すべてが……。」
彼女の言葉は途中で途切れた。突然、ユナの顔に痛みを帯びた表情が浮かんだ。彼女は胸を押さえ、席から立ち上がった。黒いコートが揺れ、彼女の華奢な体が一瞬、ひどく脆く見えた。
「ユナさん、大丈夫?」
ハルが手を伸ばすと、彼女は一歩後ずさった。彼女の目は、まるで時間が迫っていることを告げるかのように揺れていた。
「ごめん、時間切れ。覚えてて、ハル。私、あなたに会いに来たの。」
ユナはそう言い残し、急いで店の出口に向かった。ドアベルが再び鳴り、彼女の黒いコートが春の光に溶けるように消えた。ハルは呆然とその場に立ち尽くした。コーヒーカップの縁に残る冷めた液体が、静かに揺れていた。
店内に流れる古いジャズが、まるで時間を巻き戻すかのように繰り返していた。ハルはノートパソコンを閉じ、ユナの言葉を反芻した。
「あなたを探していた」
「パラメータの設定」
「未来に少しだけ関わってる」
どれも意味不明だったが、彼女の目には嘘がないように思えた。彼女の声には、どこか切実なものが宿っていた。
ハルはふと、ユナが座っていた椅子に目をやった。そこには小さな紙切れが落ちていた。拾い上げると、走り書きのような文字が並んでいた。
「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」
ハルは紙を握りつぶし、胸ポケットに押し込んだ。ユナが誰だったのか、なぜ自分の研究を知っていたのか、答えはまるで見えなかった。ただ、彼女の声だけが、耳の奥でこだまのように響いていた。
ハルは席に戻り、ノートパソコンを再び開いた。ユナの指摘したパラメータを修正し、シミュレーションを再実行した。画面に映るグラフが、わずかに変化した。結果は安定し、教授が求めていた精度に近づいている。だが、ハルの胸には、別の疑問が広がっていた。この修正が、ユナの言う「すべてが狂う」ことを防ぐのだろうか? 彼女の言葉は、まるで未来からの警告のように感じられた。
喫茶店の窓の外では、春の陽光が穏やかに揺れていた。ハルはコーヒーカップを手に取り、冷めた液体を一口飲んだ。苦味が舌に広がり、なぜかユナの瞳を思い出した。あの黒い瞳は、まるで時間を超えて何かを伝えようとしているようだった。
ハルはノートパソコンを閉じ、喫茶店を出た。青梅の通りは変わらず静かで、遠くの山々が夕暮れの光に染まり始めていた。彼は胸ポケットの紙切れを握りしめ、歩き出した。ユナの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
「あなたを探していた」
その意味を解くためには、彼女が残した手がかりを追いかけるしかない。
ハルは知らなかった。この出会いが、彼の人生を、そして世界の未来を、大きく変えることになることを。
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