では、今回の課題は

小津冬希

1 その閃光の輝きを①

 訪れるたび、誘われているようだと思う。

 池袋の中心から少し外れた通りにその喫茶店はあった。 ポツンと置かれた看板と小さな入口。 覗けば地下へ伸びる階段の先で、ステンドグラスの嵌め込まれたドアが開かれるのをじっと待っている。 その姿はまるで異世界への門だった。

 ドアベルを鳴らすと、光量が抑えられた照明の中、薄っすら白んだ視界が広がる。 煙草の煙だ。 禁煙が叫ばれる世の中、ここは全面喫煙という真っ向から対立する姿勢を取っていた。 だから当然、喫煙目的の客が多い。 喫茶目的なのは自分のような学生ぐらいだろう。 と言っても、学生がそうそう来るような場所ではないが。

 店の端にある二人がけの席に座る。 同時に煙草の独特な匂いが鼻を刺した。 この匂いを得意じゃないと感じる一方で、自分が大人の世界にいるのだという気がして嫌いにはなれなかった。

 店員に一番安いブレンドコーヒーを注文する。オーダーを通すためにカウンターへと向かっていく背中を目で追いかけながら、さり気なく店内を見渡した。

 黙々と新聞を読む男性、会話に興じる二人組、くたびれた雰囲気で休憩している女性。思い思いに過ごす大人たちが点々と座っている。 その誰もが見知った顔でないことを確認して、小さく息を吐いた。 ここにいることを誰にも知られたくない。 ここは自分にとって秘密基地だった。

 ずっと毎日が息苦しくて仕方がなかった。

 変わらない学校と家の往復に、退屈な授業。 友人との他愛のない会話も空虚で上辺だけのものだ。 まるで決められた枠の中に押し込められたような心地だった。 何か変わったこと、面白いことを求める気持ちが膨れ上がるが、そんなものがそう簡単に起きるわけもない。 目という目に監視されている現代、少し変わったことをすればすぐに見つかり晒される。 ともすれば後ろ指を刺される。 それを避けようとすれば何もかもがいつも通りだ。 全て平凡の範囲内で起きる想定された事象ばかりで飽き飽きする。 どうにか非日常を見出そうと目を凝らしても、大したものは転がっていない。

 この喫茶店もその一つだ。 立地、入口の異様さ、店内の雰囲気。 初めて見つけたときはそこに非日常性を見出した。

 だが何度も訪れれば、そんな高揚感は初めだけだと気づく。

 回数を重ねれば重ねるほど、ただの日常の延長線上なのだと知る。 どこかに連れ出してくれるんじゃないか、と期待していた気持ちが徐々に萎んでいくのを感じていた。 それでも通い続けるのは、意地と、少しでも人で埋め尽くされた世界から隠れられている気がするからだった。

 荷物を向かいの席に置こうとして、座席の下に何かあることに気づく。

 首を伸ばして確認すると、それはハンカチだった。 青い縁取りがされた、チェックのシンプルな柄だ。 落とし物だろう。

 荷物を置いた後、手を伸ばして拾い上げながら、似たような光景が最近あったな、とデジャヴを覚える。

 あれはつい数日前の出来事だ。 その時は学校で、金具の取れたキーホルダーを拾い上げながら、またか、と呟いたのだった。

「またって、何が?」

 隣の席の長谷川が合いの手のようにそう聞いてきた。

「落とし物。 今日よく見るんだよ」

 へぇ、という気のない返事ののち、例えば? と話が続けられる。

「ペットボトル、ハンカチ、切符、ペン、あとこのキーホルダー」

 切符は落とすところを見たのに誰が落としたか見つけられなかった。 通勤通学ラッシュの駅の中だ、見つけられなくてもやむなしだろうが。

「よくそんなに見つけたな。 オレなら蹴るか踏んで終わりだわ」

「まぁ……見るようにしてるからね」

 どこかにきっかけが転がっているかもしれない。 日常をひっくり返すような何か。 それが一体どんな形をしているのかは分からないが、絶対に見逃したくはなかった。

 これが何かが変わるきっかけだったらいいのに、とキーホルダーを見つめながら思っていた。

 だが残念ながら現実は何も変わることなくいつも通りやってくる。

 コーヒーカップが机に置かれる音で物思いから返った。

 店員に拾ったハンカチを預け、コーヒーにミルクと砂糖を入れて撹拌する。

 どこへも行けない。

 漂う白煙が行く手を遮る霧のように思えた。



 徐々に夏の兆しを見せ始める季節だった。 その日も見えない何かから逃げるように喫茶店を訪れた。

 店はいつも通り自分を迎え入れてくれる。 結局、ここも日常と地続きなのだ。 何も起きない、と手洗いの鏡に映る自分の顔に告げる。

 水栓を締め、備え付けのペーパータオルで手を拭きながら、もう来るのはやめよう、と思った。 コーヒー代も決して安くはないし、隠れるように居座るのもどこか後ろめたくなってきていた。

 手洗いのドアを開き、自分の席へ足を向ける。 見知らぬ影が見えた。

 その影は人の形をしていた。 一歩、また一歩と席に近づくほど輪郭がはっきりしてくる。

 スーツを来た男性が、自分が占領している椅子の向かい側に座って本を読んでいた。

 席を間違ったかと不安になった。 しかしどう見ても自分の荷物もある。 間違ってはいない。

 ならば来店者が増えての相席だろうか。 それもない。 店内にはまだ空席がある。 店員が許可なく座らせるような店でもない。

 ではきっとこの人が席を間違えているのだろう。

「あの」

 その人はちらり、とこちらを見て口角を上げた。

「忠告しておくよ。 席を立つときは貴重品を持っていくこと。

財布、携帯、定期券、そして学生証。 比較的安全な日本とはいえ、用心しておくに越したことはないよ――奥野 在翔ありかくん」

 そういって、その人は本を閉じる。

 あっ、と声が出た。 慌てて鞄の中を探り、学生証が所定の位置に入っているのを見て安堵する。 盗られてはいない。

 当たり前だが、学生証には学校名や名前の記載がある。 連絡先の記入欄もあって、自分は丁寧にも記載済みだった。 つまり、個人情報の宝庫である。

「もしかして、勝手に鞄触ったんですか」

「うん? そんなわけないだろう」

 どうしよう、とパニックになった。 個人情報の重要性が説かれる昨今、とんだ間抜けである。 相手は否定しているが、どうみても知人ではない人間が自分の名前を知っているわけがない。 きっと勝手に盗って見たのだ。 とはいえ、相手の言う通り迂闊だったのは自分の落ち度だ。 知られてしまった以上どうしようもない。

「わ、忘れてくれませんかっ」

 上ずった自分の声が店内に響く。 他の客の視線が一気に集まってきて、恥ずかしさに俯いた。

「どうして?」

 相手は笑っていた。 絶望的な気持ちになる。

「別にとって食いやしないよ。 悪用もしない」

 情報を持っていることをチラつかせている今が既に悪用だと思うが、瞬時にそんなところまで頭が回らなかった。 だからただ、本当か、と聞いた。

「本当だよ。 だから落ち着いて座って。 君と話をしにきたんだ」

「知らない人とは話すなって」

「今の世は世知辛いねぇ」

 その人は肩を竦める。

「全く知らない人ってわけでもないんだから」

 発言の意味がわからず、首を傾げた。 何度記憶を探っても目の前の人物に全く見覚えもないし、声に聞き覚えもない。

「あれ、わからない?」

 その人は胸ポケットから眼鏡を取り出してかけてみせた。

「これでどう?」

「さぁ……」

 どう、と言われたところで、覚えのないものは思い出せない。

「そっか。 まぁ会ったとは言い難いのは確かだから仕方ないかな」

 再び眼鏡を外しながら、答え合わせを始めた。

「俺は君の学校の教育実習生。 一度だけ君のクラスに見学に行ったことがあるんだ。 だから全く知らない人ってわけでもない……って説明しても、君はうわの空で授業を受けていたから覚えてないんだろうけど」

「はぁ……」

「気の抜けた返事だね。 これでちょっとは安心する?」

 その人が首にかかるストラップを引っ張り、スーツの上着の下に隠れていたカードを取り出す。 それは自分の通う学校の入館証だった。

「まぁ、ちょっとは」

 正直、ここまで言われてもピンとこない。 だが、授業をろくに聞いていたかったのは事実なので否定もしきれなかった。 加えて、学校関係者しか持ち得ないそれを持っているということは、一定の信用に値する物的証拠にも思えた。

そこまで考えてから、もしかして、と思う。

「……怒りに来たの?」

 話をしに来た、と言っていた。 こんな所に寄り道しているのを咎めにきたのでは、と背中が冷える。

 だが、その懸念をその人は一蹴した。

「まさか。 教育実習生なんか、学校の外に出たらただの大学生だ。 いけないことしてるならまだしも、そうじゃないなら指導する理由なんかないよ」

 そう言ってその人はスーツのポケットから四角い小箱を取り出す。紺のパッケージをした煙草だった。

 それを見て、はたと気づく。 自分が喫煙を疑われていたということに。 それはそうだろう。あしげく喫煙可の喫茶店に通っているのだ。 怪しくないわけがない。

「吸ってない!」

「知ってるよ」

 煙草を一本取り出してその人は笑った。 そのまま口に咥えて火を付ける。 深く吸い込んだかと思うと、紫煙がふわりと吐き出された。 甘ったるいような匂いに自然と眉が寄る。

「苦手?」

「得意じゃないだけ、です」

「こんなとこにいるのにね」

 それでもその人は吸うのをやめなかった。

「……自分の健康的な肺が黒くなるんですけど」

「こんなところにいて今更?」

 自分のささやかな反抗は、はは、と嘲るように笑われて終わった。

 その人が火をつけた一本を満喫する間、自分はじっと対面の反応を伺い続けた。 針のむしろに座っているような心地になる。 心臓がバクバクと音を立てる。 たかが教育実習生とはいえ、学生の自分からすれば相手は教師で、大人だ。 指導しないとは言うものの、どこまで信用していいのか測りかねていた。

「そんなに警戒しなくてもいいのに」

 煙草を吸いながらその人は笑う。

「担任に連絡とか」

「しないって」

 灰皿に吸い殻をねじ込む。 一本で満足したのか、煙草とライターをポケットへ収めた。

「俺がここにいるのもバレちゃうだろう?」

「え」

「だからここにいることは二人の秘密ってことにして」

 な、と首を傾げられて、困惑したまま相手を見つめる。

「サボりなんですか?」

「そう思ってもらって構わないよ。 俺は実習とは別でやらなきゃいけないことがあってね」

 はぁ、と何度目かの生返事がこぼれた。 そんな話を自分にあけすけにしていいのか、という不信感が募る。

「ところで、これを見つけてくれたのは君?」

 急な話題の転換に目を丸くする。 取り出されたのは、覚えのあるハンカチだった。 チェック柄に青い縁取り。 すぐにピンとくる。 いつかここでみた落とし物だ。

「……この前この席で拾ったやつ、だと思います」

「落としてたのか。 いやぁ助かったよ。 よく見つけてくれたね」

「いえ……」

 ただ一般的な行動をしただけだ。 お礼を言われるとどうにもむず痒い。 誤魔化すようにテーブルの上で視線を彷徨わせていると、その人は、それでね、と言葉を続けた。

「そんな君に、手伝ってもらいたいことがあるんだよね」

「……はい?」

 視線がテーブルの向かい側に定まる。

「何、ちょっとした探しものさ」

 柔和な笑みを浮かべながら、その人は煙草の箱の側面をコツン、と机に打ち付けた。 無言の圧に押される。

「話したいことって、それ?」

「そうだよ」

 その人はあっさりと言い切る。

「なんで自分なんですか」

「こんなところにいるんだ、暇でしょ。 授業もうわの空だし顔に退屈って書いてある」

 よく見ている。 確かに現実はつまらない。

「あとは勘かな」

「勘って」

 胡乱な目をテーブルの反対側に向ける。

 授業中に暇そうにしているやつなんてごまんといるだろう。 わざわざ自分に目をつける理由が分からない。

「俺の勘は過去と虚構に反応する。 君は晴れてそれに引っかかった、というわけさ」

 だから追いかけてきた、と何でもないことのように言ってコーヒーに口をつける。

「訳分かんないんですけど」

「だろうねぇ」

 と、苦情は平然とした顔で受け流された。

 終始こちらをからかうような態度と胡散臭いことこの上ない発言のせいで、相手に対する不信ポイントが着実に溜まっていく。

「嫌だって言ったら?」

「無理強いはしないよ。 その時は一人で頑張るさ」

「……自分には手伝うメリットがないです」

 不機嫌さを隠さない声で抵抗する。 こちらの頑なな態度にその人は苦笑した。

「何が気になる? 俺が学校に通報するんじゃないかってこと? それとも身元の怪しさかな? 俺は結構オープンにしてると思うけどね。 俺は君という人手を手に入れられて、君は退屈しのぎになって、つまりお互いに都合がいい。 それとも何? 担任に奥野くんが喫煙可のお店に入っていっているところを見ましたって報告した方がいい?」

「脅しだ」

 仮にも教職課程にいる人間の言いようとは思えなかった。

 そんな自分の感想をその人は鼻で笑う。

「それは夢の見すぎかな」

「どこで誰に見られているか分かんないですよ」

「君もそうだろ。 それが分かっててこんなところに入り浸っているのかい?」

 口を噤む。 考えが足りないと言われればその通りだった。

「人は勝手に勘違いするよ」

 とん、とその人は煙草の箱を叩く。

 今まで何も言われなかったのが奇跡だったのだ。 やってないといくら言っても信用されないことはある。 誰もがこの人のように聞き分けがいいわけではない。 世の中は圧倒的に不寛容だ。

「俺がいれば大丈夫なんて保証もないけどね。 それでもいざというとき誰も否定してくれないよりはマシじゃない?」

 どう、と問われる。 断って学校に報告されるか、受け入れて味方になってもらうか。

 顔を伏せ、手のひらを見た。 汗でじっとりとしている。 服の端で拭ってから、自分のコーヒーカップを掴み、喉へ一気に流し込んだ。 苦みが舌を焼く。 その刺激で脳が必死に回転を始めた。

 人に頼られる事自体は悪い気分ではない。 退屈していることも事実だ。 そして拒絶すれば害を被る羽目になる。

 思考の最中、不意に損得を超えた感情が沸き立つ——これは待ち望んでいた何かではないだろうか。

 突如膨らみだした期待を押さえつけながら、向かいを伺い見る。 そこにいるのはどこまでも普通の人間だ。 その人はこちらの視線に気づくと、ゆっくりと口の端を持ち上げ、黒い瞳を射抜くように細めた。

「悩むだけ無駄だと思うよ——だってもう気になってるんだろう?」

 膝の上で手を強く握った。 ゆっくり深く息を吸う。

「……何を」

 そこで言葉に詰まる。 そういえば名前を知らないことにようやく気づいた。

「先生は何を探してるんですか」

 その人は一瞬目を丸くしたあと咳払いをした。 眉を寄せて気まずい顔をしている。

「学校外でそう呼ばれるのは居心地が悪いからやめようか。 名前で呼んでくれる?」

「名前」

「メッサガワだよ。 不滅の滅に三つの川と書いて滅三川」

「滅三川さん」

「うむ、よろしい」

 その人——滅三川さんは満足げに頷いた。

「俺はね、龍を探しているんだ」

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