ピアノときどき、ふたりの午後【読切・ショート】

sabamisony

ピアノときどき、ふたりの午後

PM14:38


 湘南来(しょうなんらい)駅の改札を抜けたあたりに、ぽつんと置かれた黒いアップライトピアノがある。


 季節は春。日曜日の昼下がり。海風の抜ける通路に、今日はひときわ長い列ができていた。


 順番を待つ親子たちのあいだに、二組の母娘が立っていた。


 前に並ぶのは、小さな女の子とその母親。

女の子はつややかな黒髪をきゅっとひとつに結び、そわそわと落ち着かない様子でピアノのほうを何度も覗き込んでいる。


「みくる、じぃじとばぁば、まだ来ないって」


 母親がスマホを見ながらそう言うと、みくると呼ばれた子はぷくっと頬を膨らませた。


「もー! さっき“すぐ着く”って言ったのにぃ。うそつきじゃん〜!」


 その後ろで静かに並んでいた、もう一人の少女が小さく眉を動かした。


 彼女の名前は、心夏(ここな)。


 小学校六年生。けれどその身丈は、前の子とあまり変わらない。


 白いワンピースの袖口から覗く指先は、どこか青白く、けれどその爪は丁寧に切り揃えられている。


 黙ってピアノの鍵盤を見つめる視線の奥には、遠くを見つめるような冷たい静けさがあった。


 隣の母親が、ふと前方を気遣って声をかける。


「もし良かったら、先にうちの子が弾いてもいいかしら? そちらのお身内がいらっしゃるまで。いいわよね?ここな」


 みくるの母が「あ、助かります〜」とぺこぺこ頭を下げる。


 心夏はゆっくりと母を見上げ、こくんと小さく頷いた。


 その仕草は、まるで風のなかに立つ座敷童のようだった。



「じゃ、ここなちゃん先ね! がんばってー!」


 みくるが軽いノリで声をかけるが、心夏は何も言わず、ただ無表情に一礼すると、ゆっくりとピアノの前に歩いていった。


 そして──鍵盤に指が触れた瞬間、

春風が止まり、駅の空気が凪いだ。



 鍵盤に触れたその瞬間、心夏の指先から、冷たい水が流れ出したような音がひとしずく零れた。


一音、また一音。


 それはまだ旋律とは言えない、小さな氷片のような音たちだった。


 けれど駅の空気はすぐに変わった。


 ざわめいていた行列が黙りこみ、通路を歩いていた乗客たちが足を止める。


 誰もが気づいていた。いま響いているのは、ただの“子どもの演奏”ではない。


 心夏は目を伏せたまま、表情ひとつ変えず、ただ機械のように鍵盤を滑っていく。


 でも、その音だけが──

苦しげに、必死に、生きていた。


「……えぐ……」


みくるが、ぽつりと口にした。


 その目は真っ直ぐピアノの上に向けられていた。

驚いているわけじゃない。目を丸くしているわけでも、口を開けているわけでもない。


ただ、ひたすらに。


その音に、心を掴まれていた。


「やば……やばやばやば……あの子……おばけ……?」


 震えるような声でつぶやくみくる。

けれど、その声には怖れよりも、なぜだか少しだけ──


嬉しそうな響きがあった。


演奏が終わると、駅はしばし沈黙した。


 心夏は小さく一礼すると、拍手のなかをふいっと戻ってくる。

その表情はやはり無風のまま、だけど目元だけが少しだけ赤いようにも見えた。


「すごっ……!」


みくるが思わず声を上げる。


「ここなちゃんだっけ? やばかったよ! てか、わたし次とか無理なんだけど! もう帰ろっかな〜」


「うるさいよ、みくる」


 母親が笑いながら軽く小突くと、みくるはぴょんと身をよじって避けた。


 その横で、心夏の母がにこやかに微笑んでいた。



 続いてみくるが弾いた演奏は、リズムが好き勝手に跳ねまわり、音の粒がころころと転がるように溢れ出す、子どもらしい無垢な音だった。


「ありがとうございました、先に弾かせてもらって。みくるちゃん、とっても綺麗な音ですね」


「あらあら、とんでもないです〜。ねえ、みくる。ちゃんとお礼言いなさい」


「ありがと〜ここなちゃん! めちゃうまかった! てかさ、この後フレンチ連れてってもらうんだ〜。駅からちょっと歩くけど、パパがそこでお仕事してるの!」


「フレンチ……?」


心夏の母が、少しだけ目を見開いた。


「もしかして……“レ・パルフェ”じゃないかしら?」


「あ、そうですそうです! え、知ってるんですか?」


「懐かしいわあ……若い頃、よく通ってたの。恋人と」


 ふふっと笑う母の横で、心夏が少しだけ顔を上げて母を見る。

めずらしく、楽しそうな顔だった。


「わたし、クラリネットやってたの。学生のとき吹奏楽で」


みくるの母が、懐かしむようにそう言って


「だからピアノも、ちょっとはわかるんだよね。ここなちゃん、ほんとにすごかった」


「……ありがとう、ございます」


心夏がぽつりと、それだけ言った。


「ねえ、また一緒に来ようよ! ストリートピアノ」


みくるが、心夏ににじり寄って言う。


「そのあとパパのとこ行って、ごはん食べようよ。クレーム・ブリュレもあるし!ロイヤルミルクティが美味しいんだよ!」


「……うん」


 それは、ごく小さな声だったけれど


 心夏が初めて、自分から言葉を発した瞬間だった。


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