第33話 置き去りの心

 いつもの教室。


 最初は常にここに戻されてイライラもしたけど、今では少し安心する。


 日記が無いことが気がかりではあるが、なんとなくホームに戻ってきたような感覚になる。


 ただいま。とでも言ってしまいそうな感じにドアを開けてそんな気持ちも吹っ飛んだ。


 壁が、一面赤い斑点で埋め尽くされている。


 まるで赤錆の浮いた剥き出しの鉄板のようだ。


 中に入るとムッとする感覚と、生臭い臭いまでしている。


 全ての発生源はあの白い……

  いや、白かった石膏板だった。


 近付いてみるとよく分かる。


 あの白かった石膏板が腐った肉の塊みたいに見える。

 うっすら見える白さえ骨のようにさえ見えてしまう。


 赤錆のせいか鉄の混じった腐敗臭にも似た形容し難い不快な臭いが鼻をつく。


 喉に張り付く粉っぽさにむせかえる。


 ……カビを吸い込んでしまったらしい。


 うがいをしようと一旦その場を離れる。


 廊下にある水道の蛇口をひねれば赤錆混じりの水が飛び出す。


 また、赤錆か。


 分かってはいたが、水が白く濁っている。

 赤錆まで浮いて赤黒くさえ見える。


 我慢して口に含むと、鉄っぽい味がした。


 水を吐き出すと、唾液と混ざった水が思った以上に赤く泡立っていた。


 まだ、錆が残っているのか口の中に鉄っぽい味が残る。

 必要以上に分泌される唾液のせいか粘っこく、それもそのまま吐き出せば、やっぱり赤かった。


 口元を袖で乱暴に拭い、教室のドアを振り見る。


 戻ってきた時にはなかった赤い斑点が、ドアの外まで侵食していた。


 これは触れても良いものだろうか?


 少し悩む。


 中に入って何をする?


 あの腐った肉塊のようになってしまった石膏板を取りに行くか?


 ……あいつに、触れるのか?


 悩む僕の脳裏に、日記の一文が浮かんだ。


 『私を、たすけて』


 確か日記の64ページ。

 最後の一言だった気がする。


 印象的ではあったが、僕はそんなに記憶力は良くないと自負している。

 よくページ数まででてきたもんだ。


 何者かの意思を感じずにはいられない。


 私を、たすけて。か……


 あんな様でまだ助かると?

 まだ助けられると言うのか?


  本当に?


 僕はもう一度ドアを見る。


 来るなと言わんばかりの赤い斑点。


 それが逆に、今ならまだ間に合うと中の声が叫んでいるかのようにも見えた。


 ……僕はヒーローなんかじゃない。

 まして、良い人なんかでは決してないのだけれど。


 困ったな。


 自嘲気味に笑う。


 やはりどこか壊れているのかもしれない。


 たまには良いかとも思えてしまう。


 やめておけば良いのにと、どこか他人事にも思える。


 不思議と、怖いとは思わなかった。


 死地に兵士を送り込む上官の気分だ。

 どちらかと言えば特攻兵なのにな。


 妙な感覚だった。


 教室の引き戸に手をかけるのはさすがに気持ち悪く思うが、手をかけてしまえばなんて事はない。

 ただ、赤錆のせいか立て付けが悪いのかひどくかたい。先程まではもっと滑らかに動いていたはずなのに。


 両手で無理矢理こじ開けるようにしてみた。


 ガガッと音がするだけでなかなか開いてくれない。

 汗のせいか指先が滑る。

 赤錆のせいか指先が赤く染まった。


 引き戸の溝から、僕の汗が滴る。

 赤錆のせいか赤く染まったそれは嫌がるドアの涙のようにも、決死の覚悟で守り抜こうと傷だらけの身を挺して抗い傷口からこぼれ出る雫のようにも見えた。


 ツーッ。と、流れ落ちる汗が床を濡らした時、ドアは諦めたのか、力尽きたようにガラガラと簡単に開いてしまった。


 あっけないほど簡単に、だ。



 ……このドアは何から、何を守っていたのだろう。


 独白めいた感情をよそに、僕は中に入っていく。

 蛍光灯すら赤く染まり、湿気と腐臭は更に強くなっていた。


 ビチャ、ビチャ、と、足元はぬかるみ泥を踏み抜くような感じで一歩一歩、前に進む。


 こんなところで襲われちゃぁ逃げようがないな。


 死亡フラグかな?と、想像してから考えた。

 もう遅い。そしてそんな事、もうどうでも良い。


 僕はビチャビチャ音をたてながら石膏板に近付く。


 石膏板は


  赤い腐肉の塊だった……。


 もはや白さえ見えないそれに、僕は手をかける。


 ズブズブと沈み込む感覚は理科準備室の薬剤に足を取られた時のように似ている。

 引き込まれていくようで底が見えない。


 触感はゼラチンのようでやや硬めにブヨブヨとしている。


 本当に、まだ、石膏板はそこにいるのだろうか……


 僕は石膏板を探して赤黒いゼラチンの中を探っていく。


 ……


 …………


 硬い、何かに触れた。


 力を入れたら脆く崩れてしまいそうなほどに薄い何か。


 僕は片手でその薄く硬い何かを掴み、もう片方の手で赤黒いゼラチンをどかしていった。


 ……出てきたのは、赤く染まった薄く小さな石膏板だった。


 最初は、もっと分厚くて大きかった。


 下手するとノートより大きかったかもしれない。A4サイズのコピー用紙200枚位な感じ。


 それなのに今は、少し大きめのスマホ位しかないように思える。


 わずかに残ったゼラチンは脈打つようにこびりついているのに石膏板の方は風化して消えてしまいそうなほどだ。

 洗い流してやりたいが、水をかけたら水流で砕けてしまうのではないかと恐ろしくなる。


 どこに連れて行けば良い?


 どうしてあげたら良いと思う?


 それは誰に問うわけでも、まして自問自答にさえなりはしない。

 当然の如く石膏板が応えてくれるわけもない。


 彷徨える僕はいつの間にか踊り場の、大鏡の前にいた。

 目の前に見えるのは僕と同じく両手でノートを持った作りかけの石膏像。


 膝をつき、力無く項垂れる僕らの手は、鏡という超えられない壁を前に重なった。


 手が、軽くなる。


 赤だけが残る僕の手には何もない。


 石膏像が、恭しく掲げるそれは、薄く小さな、真っ白の石膏板だった。


 彼は満足したように鏡の奥へと消えていく。


 残された僕は、赤く染まった何もない空っぽの手を見つめしばし呆然としていた。


 足元には、僕がずっとさがしていたあのノートが落ちていた。

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