第16話 セーフルーム

 隣の教室に来てみたところで収穫はなかった。


 あるのは

  割れた花瓶、

  あふれる水、

  平穏な静けさ


 他には何もない。


 落ち着く、と言えばそう。

 不思議とこの部屋は落ち着くのだ。


 懐かしくもある平穏な空気が心地好い。


 狂った世界に取り残されたまともな空間。


 砂漠のオアシスのような安らぎさえある。


 あぁ、僕はまだ生きているのかな……


 そう言えば水が綺麗になった瞬間、何かに似ていると思ったんだ。


 油のついたフライパン。水張っておくと油が表面に浮いて膜みたいになるんだよね。


 食器用洗剤がつくとパァァァアっと油がよけていくんだよ。

 水面が洗剤を中心に浄化されていく感じ?

 すごくよく似てる。


 不思議と笑いが込み上げた。


 僕はまだ笑える。



 ……戻ろう。

  もうここに用はない。



 僕は歩みを進めた。

 日記を置いてきた教室の前まで来てはたと気付く。


 水の音が、しない。


 ピチャッ、ピチャッと行く時は溢れ出る水を踏みながら音を鳴らしていたのに今はその音がない。



 振り返るとそこには


  何もなかった。

 


 何故か寂しく思う僕の目にきらりと光るものが見えた。


 僕が花瓶の教室に入る前、立っていた場所。


 足元に広がっていたはずの池の中心地、そこに水はないけれど1輪の小さな花が咲いていた。


 学校の廊下、そのど真ん中に花?

 異様な光景だった。

 それなのに何故かひどく心穏やかに見える。


 小さな花は手を振るように1度揺れて、どこからともなく吹く風に煽られ軽やかに飛ばされていった。

 どこに行ったのか、もう分からない。



 僕は改めて日記の教室に向き直る。


 今までと打って変わって少し緊張してしまう。


  大丈夫。


 何が来ても、もう怖くない。


 そう思ってドアを開ける。


 ……


 特に何もなかった。


 出ていった時と何一つ変わらない状態。時間を切り取ったかのように本当にそのままなのだ。


 少し拍子抜けした。


 そうだよ、おかしな事が立て続けに起きたからって毎度おかしな事が起こるわけじゃない。

 身構えて損した。


 僕はおかしくなってふっと息を吐き出して笑った。


 吐き出した息でほこりがまった。


 その時初めて気付いた。


 ノートが、ひどく古ぼけて見える。


 この少しの間に何があったのか。不可思議な現象はノートだけではない。

 机の上や、よく見ると床までほこりがつもっている。


 まるで長らく放置されたまま時間だけが随分と流れてしまったかのようだ。


 日記を開いてみる。中身を確認したが同じノートだ。件の日記である。



【日記53ページ目】

 時の流れは無常にも、何もせずとも過ぎて行く。


 みんなは私を置き去りに、次へ次へと進んでく。


 私の事などもう誰も、覚えてさえいないのに。



ーーーー


 忘れられるのってのは、辛い話だ


 それでも、人は簡単に忘れる。


 そう言えば昔誰かが言ってたな。


 ……?


 誰が、なんて言ってた?思い出せない……



【日記54ページ目】

 考えているフリをして誰も考えていない。

 やっているフリをして誰も何もしていない。


 私はただ見ているだけ。

 不条理も理不尽も関係ない。

 思い通りにならなくて叫んでいるだけでしかない。


 悪いのは誰?

 私が悪いの?

 あの子が悪いの?

 あなたが、悪いの?……


ーーーー


 無い瞳がこちらを見た。

 ありえない……


 ぎょろりとした目がこちらを見た。

 けれど何度見返しても日記は日記。

 ただのノートであり、紙でしかない。

 絵なんて、落書きひとつありもしない。

 まして人の目玉なんて……


 しかし目の錯覚にしてはいやに粘ついた視線を感じていた。

 気持ちの悪いほどに、睨みつけてきたのだ。

 ……ノートなのに!


 ありえない、けれどなぜだか日記に気がした。

 この日記は僕に問うているのか?

 僕が読んでいることを知っている?

 日記の主が近くにいるのだろうか。


 やっと出てきた人の気配に内心喜びつつ、よく考えたら今僕はその人の日記を盗み見ているのだと言う事実を思い出して困ってしまった。

 何と言い訳したものか。


 少し照れ臭いような、それでいて期待に胸膨らませるこの気持ちは何だろう?

 ワクワクしてる?ドキドキしてる?


 ……やめた。


 ノートから感じた視線なんて、人な訳がない。もしこの感覚が本物なら、それはもはや怪異でしかない。


 バケモノの登場なんて願い下げだ。


 ……ふと目についた僕の手はなんとも気持ち悪い色で語りかける。


 お前も立派なバケモノだ、と。

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