狂気猫

かるびの・いたろ

第1話

 しゃきしゃきしたキャベツは、よく水をきる。

 れたその葉には精気せいきを吸いあげたようなみどりの露が光る。

 「ああ、またのぞいている」

 菱子ひしこは台所の窓のむこうのへいをみた。

 なにかをしぼりあげるような狂おしい鳴き声をあげる猫がいる。


 いちど、縁側えんがわまで来たことがあった。油断をしていた。生まれたばかりの可葉かよをそこに寝かせたきりにしてしまった。叫び声をあげておいはらった。

 あやうく顔をひっかかれるところだった。

 それ以来ちょくちょく、このあたりでみかける。

 猫は茶色に灰色や赤や黒などを混ぜたようなまだら模様だ。汚らしい。


 菱子は窓をあける。大声で猫をおいはらう。

 うしろでなにかがもだえるような甲高かんだかい声がする。

 菱子はびくりとした。ふりかえる。

 赤ん坊の泣き声はどうしてさかりのついた猫のそれにそっくりなんだろう。ついにおいはらった猫が家のなかに入りこんだのかと思った。

 菱子はため息をつく。

 「ほらほら、おしめ?それともミルク?」

 赤ん坊はしっとりと熱い。絹の布を丁重に蒸したようだ。菱子は抱きあげるたび、うっとりする。でも、ずっと独りで世話するのはつらい。

 夫が帰宅した。菱子は彼の晩ごはんの支度したくもしなければならない。

 たまにはだれか代わってくれないか。そう思うこともある。

 

 「うるさいぞ」

 可葉かよの夜泣きに夫はそういい放つ。うしろをむけたその姿は鈍重どんじゅうな牛のようだ。

 菱子ひしこがあやしても泣き止まない。

 「仕事で疲れてるんだ、おれ」

 遠いこだまのように彼の声が響く。夫の寝姿ねすがたは巨大な暗い山脈だ。

 しかたなく、菱子はこどもを抱き上げる。

 夜泣きをあやすため外へでる。


 夜風は意外に心地よかった。しかし、それ以上に溶岩のように熱い赤子は重い。鼓膜こまくをつんざくように可葉かよは泣く。

 塀の上にぎらりと金色こんじきの炎がひかった。はっとする。

 例の猫だ。それは可葉かよ呼応こおうするように鳴きつづけた。

 ひらりと塀からとびおりた。

 菱子の足元にしきりに体をすりよせる。天鵞絨ビロードのような肌ざわりはどこか淫靡いんびだ。菱子の背筋がぞわりとした。

 サンダルの足でじゃけんに追い払う。一度逃げるが、絶妙なタイミングで再びすりよる。

 サンダルでばそうとした。

 足の親指にするどい痛みが走る。ひっかかれたのだ。

 怒りと恐怖にかられた菱子はかたわらの石を猫に叩きつけた。

 なにかがつぶれるいやな音がする。

 ぐったりと動かなくなったそれをおそるおそる、つま先でつついた。

 びくりともしない。


 可葉かよの夜泣きはやまないのに、それどころではない。

 胃液いえきがこみあげ、えずきそうになる。だが、菱子はえた。

 とりあえず猫の死体を人目につかない場所へ移す必要がある。

 菱子は猫の死体をもちあげた。生温かい。手のひらが触れたところから、なにかがずれる感触がした。そのままキャベツの葉をはがすように猫の皮がむけた。

 「ニャー」

 菱子の手のなかに皮を残したまま、猫はずるりとすりぬけた。そして一声ひとこえ鳴いた。

 皮はたちまちくずれた。雲母うんもの粉のようにきらきら光る。地面につくまえに、みな消えてしまった。

 菱子はいた。わけもなくこみあげる涙をぬぐう。帰宅した。

 

 「どうした」

 れいの一件以来、寝つけない日がつづく。夫が声をかけてきた。さすがに菱子の顔色が悪いのをみかねたらしい。

 菱子はよほどあの猫についてうちあけようかと思った。

 「どうでもいいけど、おれに迷惑かけんなよ」

 この人ではだめだ。菱子はあきらめた。


 夫が出社する。

 静かになった。菱子は台所でだまって自分の手を眺めた。

 可葉かよが泣き出す。あわててお湯をかす。粉ミルクを溶くためだ。

 窓の外から声がした。身悶みもだえするような、なにかをしぼりあげるようなくるおしい声。

 菱子はおもいきり窓をあけはなつ。

 「ニャー」

 れいの猫が塀の上にいた。

 菱子は包丁を握りしめた。わきめもふらず外へかけだす。

 くだんの猫はまだへいの上にいた。彼女の足元に飛び降りる。

 「死んでおしまい」

 包丁を叩きつけようとした。だが、猫は身をかわす。

 菱子は夢中で追いかけた。ひらりひらりとそれは身軽にかけてゆく。

 ふいに、ただごとではない泣き声にわれにかえった。

 泣き声は縁側えんがわのむこうからする。

 菱子は無我夢中で家の中へかけあがる。

 いつのまにか、はいはいした可葉かよが台所までたどりついていた。ヤカンがひっくりかえっている。熱湯が赤ん坊の顔にかかっていた。

 ケロイドができたわが子の顔をみた菱子は呆然ぼうぜんとした。


 「ニャー」

 猫の鳴き声にわれにかえる。

 へたりこむ菱子のそばにあの猫がいた。

 手をのばす。猫をもちあげる。ずるり、となにかがむける感触がした。

 猫は彼女の手の中からすべりおちた。

 キャベツの葉ががれ落ちるように皮だけが菱子に残った。

 彼女の中で、なにかが切れた。頭が真っ白になる。


 帰ってきた夫は発見した。

 血まみれになった台所。そして、ぐんにゃりしたわが子を抱きかかえて放心する妻の姿。

 菱子は赤ん坊の首に包丁をつきたてていた。

 取り乱した夫は妻を追求した。菱子は、赤ん坊の皮をむけば肌がもとどおりになる、としきりにわけがわからないことをくりかえすのみだった。

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狂気猫 かるびの・いたろ @karubino

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