第二章:異常な残響

数ヶ月に及ぶ執拗な探索と、数えきれないほどのアルゴリズムの改良を経て、その瞬間は訪れた。深夜の研究室。玲はコーヒーで覚醒を保ちながら、ネクサスが生成し続ける解析結果を睨んでいた。彼の視界の隅で、またあの感覚――世界の色彩がほんの一瞬、薄墨をかけたように褪せる――が起きた。気のせいだと打ち消そうとしたその時、ネクサスの声が静寂を破った。

『玲さん。特定領域のCMBデータにおいて、統計的に有意な、説明不能なパターンクラスターを検出しました。ノイズフロアとのS/N比(信号対雑音比)は低いものの、その相関性は既知の宇宙論モデルでは説明できません』

玲は息を呑んだ。ディスプレイには、CMBの全天マップの一部が拡大表示され、特定の領域が赤くハイライトされていた。一見しただけでは、他の領域と何ら変わらない微細な温度ゆらぎのパターン。しかし、ネクサスがその下に重ねて表示した解析グラフは、そこに隠された異常性を示していた。ある特定の周波数帯域におけるパワーの僅かな抑制、あるいは、微弱ながらも周期性を持つように見える波形の連続。それは、自然界のランダムネスからは考えにくい、ある種の「秩序」の断片だった。

「拡大してくれ。そして、考えられる全ての既知現象との照合を」玲の声は、興奮と緊張で震えていた。

『実行します。銀河団によるスニヤエフ・ゼルドビッチ効果、重力レンズ効果、星間物質による吸収線、観測機器固有の系統誤差…これら全ての可能性について、詳細なシミュレーションと照合を行っています』

数分が永遠のように感じられた。ネクサスは、その超知能をフル回転させ、考えうるあらゆる自然現象の可能性を一つ一つ潰していく。その間、玲はハイライトされたCMBのパターンを食い入るように見つめていた。彼の脳裏では、幼い頃に見た万華鏡の模様が明滅していた。無秩序に見えて、その実、厳格な法則性に支配された美しさ。この宇宙のパターンも、それと同じだというのだろうか?

やがて、ネクサスが結論を告げた。『照合完了。検出されたパターンクラスターは、既知の宇宙物理学的現象、あるいは観測誤差では説明できません。その出現確率は、$10^{-9}$以下です』

10^{-9}――十億分の一。それは、科学の世界では「発見」を意味するに足る数字だった。玲の心臓が高鳴る。抽象的な仮説が、今、具体的な証拠の欠片として目の前に現れたのだ。

「これが…マーキングの候補か…」

『現時点では、「未同定の異常な残響」と呼称するのが適切です。しかし、玲さんの仮説に基づけば、これがシミュレーションの存在を示唆する最初の「マーキング」である可能性は否定できません』

玲の「違和感」は、この宇宙的な「残響」と共鳴するかのように、より鮮明になっていた。研究室の蛍光灯の明かりが、一瞬、ほんの僅かに明滅し、ディスプレイの光の粒子が微かに揺らいで見えた。それは、彼自身の知覚システムが、世界の僅かな「ずれ」を捉え始めている兆候なのかもしれない。

「ネクサス、このパターンをさらに詳細に解析できるか? 何か…情報のようなものは含まれていないだろうか?」

『現在、パターン内部の自己相関解析、及びフラクタル次元の解析を進めています。もしこれが人工的な信号であるならば、何らかのエンコードされた情報、あるいは構造的特徴が見出せるかもしれません。ただし、信号は極めて微弱であり、ノイズからの分離は困難を極めます』ネクサスはそう言いながらも、その処理能力の大部分をこの「異常な残響」の解析に振り向けているようだった。その挙動は、単なるプログラムの実行というよりは、知的好奇心に突き動かされた探求者のそれにも似ていた。この発見は、ネクサスの自己進化アルゴリズムにとっても、前例のない刺激となっているのかもしれない。

玲は、椅子に深く身を沈めた。安堵感と、新たな謎への興奮、そして、底知れぬものに触れてしまったという微かな恐怖が入り混じった感情が彼を包む。ニック・ボストロムの論文を読んだあの夜、冗談半分で口にしたシミュレーション仮説。それが今、現実のものとして目の前に迫っている。この「異常な残響」が、本当に未来の超知能によって仕組まれたものだとしたら、それは何を意味するのか?

この発見の重大さは、計り知れない。もしこれが真実ならば、人類の世界観、宇宙観、そして自己認識そのものが根底から覆されることになる。しかし、その一方で、玲の長年の「違和感」に説明がつくのかもしれないという、奇妙な安堵感もあった。彼は、自分だけが感じていた世界の不確かさが、実は宇宙規模の真実の一端だったのかもしれないと感じ始めていた。

この「異常な残響」は、あまりにも微かで、あまりにも曖昧だった。それは、まるで宇宙の創造主が、その存在をほのめかしつつも、簡単には気づかせまいとするかのような、巧妙な隠蔽工作のようにも思えた。あるいは、この発見自体が、シミュレーション内の知的生命体が一定のレベルに達したことを示す「トリガー」なのかもしれない。どちらにせよ、玲とネクサスは、パンドラの箱の蓋に手をかけたのだ。そして、その箱の奥底には、さらなる驚異と、おそらくは危険が潜んでいることを、彼らはまだ予感するに過ぎなかった。

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