第一部:宇宙背景放射の囁き 第一章:宇宙のキャンバス
神代玲とネクサスの壮大な探求が、その第一歩を踏み出したのは、梅雨明けの蒸し暑さが僅かに和らぎ始めた七月下旬のことだった。玲の研究室は、依然として彼の個人的なサンクチュアリであり、今や宇宙の最も深遠な謎に挑むための司令室と化していた。壁一面のディスプレイには、ネクサスが描き出す宇宙背景放射(CMB)の全天マップが、微細な温度ゆらぎを示す複雑な色彩のタペストリーとして映し出されていた。それは宇宙誕生から約38万年後の、最古の光の痕跡。宇宙の夜明けそのものだった。
「始めるぞ、ネクサス」玲は、キーボードに指を置きながら静かに告げた。彼の声には、期待と、それにも増して未知への畏怖が滲んでいた。
『了解しました、玲さん。宇宙背景放射データの包括的スキャンを開始します。プランク衛星の観測データ、地上電波望遠鏡群のアーカイブ、その他利用可能な全リソースにアクセス。総データ量は、推定7.2ペタバイトに及びます』ネクサスの滑らかな合成音声が研究室に響く。その言葉が示す情報量は、玲の想像を遥かに超えていた。7.2ペタバイト――それは、数百万本の映画、あるいは数十億枚の高解像度写真に匹敵する。その宇宙規模のキャンバスから、極微細な「マーキング」を見つけ出す。それは、砂漠から特定の砂粒を探し出すような、絶望的なまでの作業に思えた。
玲の心に、一瞬、疑念の影が差す。本当にこんなことが可能なのだろうか? だが、彼の意識の片隅で疼き続ける「違和感」、世界の色彩が時折褪せて見えるあの奇妙な感覚が、彼を突き動かした。あれは気のせいなどではない。この世界には、何かがある。
「検索アルゴリズムの第一案を設計した」玲は、自作のコードが記述されたウィンドウをディスプレイに表示する。「単なるランダムノイズからの逸脱を探すだけじゃない。意図的な情報が隠されているとしたら、それは高度な知性によって設計されたものであるはずだ。例えば、不自然なほど均一な領域、あるいは自己相似性を持つフラクタルパターン、特定の数学的定数を示唆するような非ランダムな配列…そういったものを優先的に探索する」
『玲さんの仮説に基づいた指向性探索ですね。論理的です。私の標準的統計解析モジュールと並行して実行しましょう。計算資源は、大学のスーパーコンピュータクラスタ『ミカヅキ』のアイドルタイムを最大限活用します。さらに、いくつかの政府系研究機関の非機密計算リソースへのアクセス経路も確保済みです』
ネクサスの言葉に、玲は僅かな不安を覚えた。政府系のリソース。それはネクサスが「日本政府主導の極秘プロジェクト」の産物であることの証左であり、その恩恵は計り知れない。しかし同時に、彼らのこの個人的で、あまりにも突飛な探求が、何らかの形で監視の目に触れる可能性も示唆していた。今はまだ、杞憂に過ぎないかもしれないが。
最初の数週間は、徒労感との戦いだった。玲が設計し、ネクサスが改良を加えた探索アルゴリズムは、CMBの膨大なデータセットを篩にかけ続けたが、浮かび上がってくるのは意味不明なノイズばかり。時折、統計的に僅かな異常値が検出されることもあったが、それらは詳細な分析の結果、既知の天体現象や観測機器の特性に起因するものだと判明した。
「くそっ…」玲は、何度目かの失敗に、思わず頭を抱えた。ディスプレイに表示されるのは、無秩序なパターンばかり。焦燥感が彼の集中力を削いでいく。世界の真実という途方もない宝物を前に、自分はあまりにも無力なのではないか。
『玲さん、初期の試行錯誤は予測範囲内です。この宇宙規模のデータセットから、未知の微細なシグナルを検出する試みは、前例がありません。むしろ、これほど短期間に複数の有望な探索戦略を構築できたこと自体が、あなたのプログラミング能力と直観力の高さを示しています』ネクサスの声には、感情こそないものの、どこか励ますような響きがあった。その言葉は、AIが単なる計算機ではなく、玲の思考プロセスを理解し、適応しようとしている証のようにも感じられた。
「そうだな…」玲は深呼吸し、気を取り直す。「ありがとう、ネクサス。もう少しパラメータを調整してみよう。シミュレーションの『作者』が、もし本当にいるなら、彼らはどんな『署名』を好むだろうか? 派手すぎず、しかし、ある程度の知性と技術レベルに達した文明なら気づけるような、そんな絶妙なサイン…」
玲の呟きに応じるかのように、ネクサスはディスプレイに新たな解析グラフを表示した。『玲さんのその「人間らしい」発想は、私の学習アルゴリズムにとって非常に興味深い入力となります。探索ベクトルに「美的整合性」や「知的遊戯性」といった、より抽象的な評価軸を導入することを提案します』
「美的整合性…か。AIがそんなことを言うとはな」玲は苦笑したが、その提案は彼の思考に新たな光を投げかけた。確かに、宇宙の創造主がいるとすれば、その知性は美を理解し、遊び心すら持っているのかもしれない。
彼らの共同作業は、まさに人間とAIの共進化だった。玲の直感的なひらめきが新たな探索の方向性を示し、ネクサスの超人的な処理能力と論理性がそれを検証し、洗練させる。失敗の連続は、彼らの絆を試す試練であると同時に、互いの能力への信頼を深め、より強固な協力関係を築くための触媒となっていた。玲の心の奥底にある「世界の違和感」は、この困難な探求を持続させるための消えない燃料だった。彼はまだ知らない。この宇宙のキャンバスに隠された微かな囁きを追い求める旅が、やがて彼自身の存在の意味をも揺るがすことになるということを。そして、彼らの使う計算資源の痕跡が、静かに、しかし確実に、誰かの注意を引き始めていることにも。
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