円環の懐疑に至る

Rei

前文

私は長年、「死」を鋭く観察してきた。その断面を覗き込むほど、「死」という現象の奥底には、決して掴み取ることのできない出口が隠れているらしいという不可解に行き着く。なぜ観測できないのか。おそらく「死」は生との断絶であり、その境界線は肉眼にも思考にも捉えがたい。あるいは、人類が未だかつて一度も「死」の経験を持ち帰ることができなかったからこそ、私たちはそこに盲目のままでいるのだろう。


質量も物質も伴わぬ無形の深淵を前に、人は本能的に背を向け、恐怖を打ち消さんとしてあらゆる理屈を構築する。偶然すら認めないその必死さは、わずかながらの自我をつなぎとめるための鎖であるかのようだ。しかし、その自我とは一体何なのか。もし「自我」が私を私足らしめる唯一の現象であるならば、それを守り続けることに何の意味があるのか──思考は迷路の中で反響し、問いはさらに問いを連れてくる。


私はこの世に「生」を受けた存在として立っている。その立脚点こそが、自我の揺らぎを測る唯一の尺度なのかもしれない。何が私を動かし、何を痛みと呼ぶのか。渾沌とした意識の螺旋の中で、遺伝の血脈も環境の囁きもすべてが「現象」として漂う。その果てにあるのは、如何にして終焉を迎えるかという命題だ。末期的とも言える病理を抱え込み、私という個が朽ち果てるその瞬間、「死」は最後の解放となる。


しかし、本当に「救い」か。死の扉を前にしてこそ、初めて人は己の生を問い直す。その問いは、どこまでも空虚を彷徨う。もし死が救いなら、生は何だろう。もしかすると、生きること自体が最初の苦悩への招待状であり、私たちは知らず知らずのうちに、その招待状を手放せずにいるのかもしれない。呼吸するたびに宿る痛み、時間の流れに刻まれる後悔──これらは死への予習であるがゆえに、私たちを縛り付ける。


そして思う。私は誰に向かってこの声を発しているのだろう。未来の私か、すでに消えた過去の私か。いや、そもそも「私」という主体そのものが、死と生の間を揺れる蜃気楼なのではないか。観測できない出口を求める探求の果てに、ただ一つ確かなのは、人が恐怖から逃れるために編み出した多くの言葉が、いずれは虚ろな響きとなって消え去るという事実だけだ。


この文章を綴る手も、いつかは震え、そして止まるだろう。それを私は「最後の沈黙」と呼びたい。そこには出口も救いも存在しない。ただ、永遠に続くべきであった沈黙が、ごく短い余韻を残して終焉を迎える──それこそが、私が死を直視して得た唯一の真実なのかもしれない。

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