第7話 西郷どんの まなざし
台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧
第7話 西郷どんの まなざし
洋子おばちゃんにも会いたい。
横浜から毎年のように鹿児島へ訪れた夏休み。洋子おばちゃんはいつもこう言っていた。
「たいして、どこも連れていけなくてね」
そう言いながら、連れて行ってくれたのは、知覧の隣町、枕崎。太平洋への入り口の町だ。
市場の頭上の「Toilet」(洗面所)と書かれた矢印に従って進む。鏡の前にある洗面台のそばには、手書き風の貼り紙があった。
そこには鹿児島弁でこう書かれている。
「潮風といっしょに、すっきりしもんそ」
思わず笑みがこぼれた。響香は鏡を見つめ、逆流する涙をそっと拭った。「これなら、大丈夫」——そう自分に言い聞かせる。
隣に並ぶ女子高生たちの会話が耳に入った。
「西郷どんがさ、西郷どんがさ、うちのママがうるさくて……」
最初、響香は「西郷丼」という鹿児島らしい名物の話かと思い、聞き耳を立てた。しかしそれは料理の話ではなかった。どうやら西郷隆盛を引き合いに、母親が人生の選択について説いているらしい。
ふと、自分の立ち位置がぼんやりしていることに気づく。話の終わりを待たず、響香はそっとその場を離れる。薄曇りの空を見上げ、深呼吸した。
「どこか、落ち着ける場所はないだろうか」
そう思いながら、ポケットの5円玉を取り出す。さっきの女子高生たちの話と、鏡越しに見た自分の姿が、頭の中で交錯する。
——5円玉をじっと見つめる。
「そういえば、西郷さんの銅像……」
小学校の社会科見学で、その銅像を見に行ったことを思い出した。40年間、一度も思い出さなかった記憶だ。バスの揺れと車酔いをこらえながら、先生の説明を聞いた。
「約150年前(1898年)、日本で最初の公園に、犬を連れた西郷隆盛の銅像が建てられました。その公園は恩賜公園と呼ばれ、『恩賜』とは天皇から賜ったという意味です。1924年、大正天皇が寄贈し、現在の上野恩賜公園となりました」
——なぜ、日本最後の内戦の敗者で、反逆者とされた人が、一等地に立っているのだろう。幼い頃の自分は不思議に思ったものだった。
司馬遼太郎が好きな哲郎に、何かの拍子で聞いたことがある。
「どうして西郷さんは、あんなに堂々と銅像になってるの?」
哲郎は少し考え、こう答えた。
「彼は志を同じくした仲間との戦いで、自ら切腹の道を選んだ。だからこそ、敵味方を超えて敬意を持たれたんじゃないかな」
その言葉の真偽を確かめたくて、スマホを手に検索する。
『西郷隆盛の真意や葛藤を知れば、彼の行動は単なる反逆者ではなく、理想を追い求めたものだったことが理解できる。西郷が求めたのは理想的な社会。しかし時代の流れと合わず、結果として孤立し、戦いを余儀なくされた——その背景は現代にも通じる』
ゾクリとした。西郷さんは単なる歴史上の人物ではない。その足跡は、今も私たちの時代と重なっているのではないか。
薩摩西郷さんは 世界の偉人 国のためなら オハラハー 死ぬと言うた——『鹿児島小唄』の響きが、ふと頭に流れた。
鼻をくすぐる香りに現実へ引き戻される。目の前には、懐かしい市場の光景。いや——成熟した文化の光景だ。
「午後から西に回るな……うねりが残るぞ」
「魚、また深ぇとこか」
氷を砕く音に混じる低い声。氷に敷き詰められ、キラキラ光る帯のように並ぶきびなごの上で、漁師と店主がスマホを指差し合い、海の行方を占っていた。
どちらに歩こうか迷っていた時、声をかけてきたのは、さっきのドジャースTシャツの店主だった。
「ねえちゃん、さっきはありがとうな。あさっての午前中には、まちがいなく着くから。ちゃんと電話しときな。」
生臭さを感じさせない新鮮な魚の匂い。木箱に積まれた野菜。忙しそうに行き交う人々のざわめき。それらすべてが、さっきよりも温かく響く。潮風に混ざる鰹節の香りが、胸の奥に広がった。
「響香ちゃん。かつおぶしの雄節と雌節とは、味も形もちがうんだよ」——おばあちゃんや名だこおばちゃんの声が聞こえる。(いったい、どっちがどっだっけ?)
待ち人がいるふりをして、ふらふらと市場を歩く。——その時、足が止まった。
「あっ……」
目の前には鰹節売り場の棚。
「新さつま節 800グラム 2600円」「本枯節 L 520グラム 3500円」
値札のついた黒く固い鰹節が、かつて祖母の家で削っていた光景を呼び起こす。
目の前に置かれた木製の箱を、そっと撫でた。——響香は、時の流れの中で、確かに自分の立ち位置を感じ始めていた。
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