「台所の世界をかえる」(台所シリーズ 第4部 知覧編)
朧月(おぼろづき)
第1話 ちらん
台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧
第1話 ちらん
序章
響香の父が育った町、知覧。
「大きくなったね。今年も来たのか」
そう声をかけてくれる人がいた、あの夏――
それは昭和五十年ごろのこと。
けれど、父は戦時中の話を決して語らなかった。
その扉を開けるとき、
私たちは、小さな断片を拾い集めるしかなかった。
いま、知覧茶を口にふくむたびに、
あの空の色が、すっと胸の奥に戻ってくる。
「続きのない八月」
三月
にいちゃんは、蝦夷(えぞ)というところから来たらしい。
父ちゃんの下駄をはいて、かたかたいわせて、いつも飛行機の練習に出かけていた。
四月
庭の変なところから、葉っぱが出た。僕の手のひらほどの丸い葉。
ふたりでそれをよけて、ちゃんばらをした。
「これ、かぼちゃかも」
にいちゃんが言った。
どうしてこんなところから芽が出たのか、ぼくにはわからなかった。
五月
ギザギザの葉っぱが出てきた。
ふたりでしゃがんで毎日眺めた。
葉が六枚になったとき、にいちゃんは先っぽをひとつ摘んだ。
「摘芯(てきしん)って言うんだってさ」
葉に「これ以上伸びるな、次は花をつけろ」と教えることらしい。
六月
やがて葉は二つに分かれ、黄色い花が咲いた。
つるを切るせんていもした。
切り口から青い匂いがした。
七月
しましま模様の実があらわれた。
思い出した。あれはぼくが去年、種を飛ばした場所だった。
こぶしでこんこんとたたいた。
八月
川原に持って行って、スイカを冷やした。水はひんやり冷たかった。
ふたりであちこちに種を飛ばした。
「来年はスイカ畑だね」
にいちゃんが笑った。
「あの川原を台所にして、みんなを呼んでスイカを食べよう」
九月
「あんなうまいもんは蝦夷にはない」
そう言って、にいちゃんはリンゴの話もしてくれた。
十月
にいちゃんは、はじめてみかんの木を見た。
にいちゃんの肩にのって僕もちかくで見た。
「これ、みかんだよ。」
でも、とらなかった。
十一月
「にいちゃんの分もくれ」って言ったら、
「うそつけ」というから、あいつとちゃんばらで勝負した。
あいつは泣いたけど、勝ったからもらった。
……でも怒られた。
十二月
ふたりでこっそりみかんを食べたら、手が黄色くなった。
皮と種をどうしようか話していたとき、
にいちゃんは種を引き出しにしまった。
一月
火鉢のそばで、日本地図を墨で描いた。
にいちゃんの指先が、海と陸をなぞっていった。
指は墨で黒く染まり、爪のあいだに線が残った。
二月
雪が降った。
にいちゃんと僕の手のうえで、雪はすぐに消えたけれど、庭は一面まっ白になった。
「明日、雪だるまをつくろう」
にいちゃんはそう言った。
けれど、一晩のあいだに雪はどこかへ消えてしまった。
三月
菜の花が咲いた。にいちゃんの飛行機が空で旋回するのを見た。
四月
魚釣りをした。にいちゃんと釣り糸の結び方を考えた。
五月
川原へ行った。スイカの芽はまだ出ていなかった。
六月
紙をまるめてちゃんばらをした。ぼくが勝った。
にいちゃんは、紙をしまった。
薪で風呂をわかしてふたりではいった。
七月
庭のスイカが大きくなった。
にいちゃんは、あのときのみかんの種を引き出しから取り出し、ポケットに入れた。
台所の水桶の前で、ぼくに見せてくれた。
みかんの種を乗せて、にいちゃんの飛行機は飛んだ。
――空が、深く、遠くなった。
にいちゃんは、みかんの種とともに空に消えた。
八月
ぼくとにいちゃんの八月はなかった。蝉の声だけが響き続けていた。
ぼくが十歳のときのこと。
ここは知覧。昭和二十年。
片道の燃料で、青年たちが飛び立っていった町――知覧。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます