翼を広げて
tei
第1話
ギシ、ギシ。
機械仕掛けの翼は、どこにも不具合なんてないけれど、動かすたびに軋んだ音を立てる。私の両耳の横で響くその音は、足元で寄せては引く波の音に混じって、けれども決して消えてしまったりはしない。空と同じ色の海が、私を待っている。
ギシ、ギシ、ザザア……
潮の香りが鼻孔をくすぐる。細い鳥の足が、砂浜に埋もれそうだ。私は砂の間から足を引き抜いて、一歩、また一歩と踏み出し、やがて駆け出し、頭を低くして、波の下に潜って行った。一瞬、目を瞑ってしまい、視界が暗転する。潮の香りは失われ、代わりにくぐもった音が聞こえた。私の体が、水中で動く音だ。
目を開くと、南海の珊瑚礁が広がっていた。色とりどりの魚たちが、水面を通って柔らかくなった日差しに照らされながら、ひらりひらりと泳いでいる。向こうから何かが近づいてきた、と思ったら、大きな甲羅を持った亀だった。ゆったりと流れに身を任せながら、私のすぐ横を通り過ぎていく。無数の泡があちらこちらで弾け、海藻が揺らめいている。海の中は、平穏そのものだ。私は水中でも滑らかに動く翼と足を駆使しながら、クチバシを左右に振って海藻の中へ分け入ってゆく。
シーワールドは、最近実装されたばかりの人気エリアだ。ひと口に海と言っても、南海の珊瑚礁や北の寒い海、地中海や入江など種類も様々で、ユーザーはいつものアバターで好みの海を楽しむことができる。どのメタバースよりも映像の美しさで売り出している「フリールド」だけあって、その臨場感は別格だ。実際に体験してみて分かったけれど、潮の香りや水の冷たさなどの再現も、かなり高レベルだと思う。まあ、日本の高校生である私は、これまでの人生で南の海なんて行ったことはないのだけれど。
ログアウトして、ゴーグルとヘッドホンが一体になったヘッドセットを取り外す。昔は結構重たかったと聞くヘッドセットは、今では自転車用のヘルメットより軽い。そのままチェアに置いておいて、個室ブースを出る。私と同じ型のセンサウェアを身につけた人が数人、大して広くはない廊下を行き来している。もしかしたらフリールドですれ違った人もいるのかもしれない。
数分歩いてたどり着いたロッカールームで、見た目は洒落た緑色のジャージ上下みたいなセンサウェアを脱ぎ、預けておいたパーカーとジーンズに着替える。センサウェアは腕や手、胸元、背中やお腹、脚全体や足の裏など、全身に触覚フィードバックのためのセンサーがついている。センサーは体に密着するようになっているから、一見するとただのジャージでしかないウェアも、着ていると結構、ぴちぴちだ。でも、コレのおかげで私は、シーワールドの水の重さや冷たさ、砂の一粒一粒を感覚して、あの世界に没入することができる。ちなみに、潮の香りなどはヘッドセットの首筋あたりから香料を合成して吹きかけているらしい。
「
ウェアを返却して受付の横を通ると、いつものコンシェルジュにお辞儀をされた。このVR施設でリアルの人間の声を聞くのは、入場時と退場時だけだ。軽く頭を下げて、そそくさと扉をくぐる。
月額料金を払ってくれているのは、お母さんだから。
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