Re:Memory ~エルはまだ、君の名前を呼ぶ~

どっかの大物作家

プロローグ :誰の記憶が本物なのか

西暦2062年、神代エデュケーションシティ。


朝の光が、整然と区画された未来都市のガラスと金属を鈍く反射している。空には薄い情報レイヤーが投影され、天気予報やニュース、そして個人のスケジュールに合わせたレコメンド情報が、風に揺れるオーロラのように淡く明滅していた。

通学路を行き交う学生たちの耳元では、小型のイヤーピースが微かな光を放っている。彼らは時折、虚空に向かって頷いたり、誰かと会話するように口を動かしたりしている。その相手は、人間ではない。彼らに寄り添うように浮かぶ、半透明のアバター


――学習AIアシスタント、通称「リメア」だ。


昨夜のうちにクラウドからダウンロードした「今日の小テスト範囲の完璧な記憶」。あるいは、週末のデートで失敗した「気まずい会話パターンの修正データ」。

「Re:Memory」技術は、僕らの日常に当たり前のように溶け込んでいる。記憶はバックアップされ、編集され、最適化される。まるでPCのファイルみたいに。

それによって、僕らは多くの「不要な苦痛」から解放されたらしい。少なくとも、大人たちはそう言っている。


(――本当に、そうだろうか?)


僕は、東雲 しののめ とおる、16歳。この春から高校2年生になる。

周囲の喧騒をどこか遠くに感じながら、僕はいつものように、他人より少しだけゆっくりとした足取りで坂道を登っていた。

僕の耳にも、他の生徒たちと同じようにリメアと接続するためのイヤーピースは装着されている。けれど、僕のリメア――“エル”と名付けられることになるAIは、まだ僕のもとへは配属されていない。今日、新学期のオリエンテーションで、ようやく「それ」と顔を合わせることになる。


他の連中みたいに、AIと親しげに会話する気にはなれない。

だって、彼らは本当の友達じゃない。プログラムされた通りに、僕らにとって「都合のいい」反応を返すだけの存在だ。記憶や感情でさえ、データとして扱われるこの世界で、「本当」なんて言葉にどれほどの価値があるのか、僕にはもうよく分からない。


そんなことを考えていると、胸の奥が小さく軋むような感覚がする。

いつからだろう。この感覚に名前をつけられないまま、ずっと抱えて生きている。


自分には、思い出せない“何か”がある。


それは確信に近い。

パズルのピースがひとつだけ足りないような、不完全な感覚。

日常のふとした瞬間に、既視感とも違う、強烈な喪失感が胸を突く。

冷蔵庫を開けた瞬間。公園のブランコを見た時。夕焼け空に響く、誰かの笑い声を聞いた時。

まるで、脳の一部が靄に包まれてしまったみたいに、そこだけが白く抜け落ちている。


Re:Memoryの恩恵で、僕は幼い頃に負った心の傷――らしいものを、綺麗さっぱり「消去」してもらった過去がある。両親は「君のためだ」と言った。医師も「それが最善の治療です」と説明した。

だから、今の僕には、その「傷」がどんな形をしていたのか、どんな痛みを伴っていたのか、全く思い出せない。

それはきっと、素晴らしいことなのだろう。

苦しい記憶なんて、ない方がいいに決まっている。


なのに、どうしてだろう。

時々、どうしようもなく、その「消された記憶」の輪郭を探してしまう自分がいる。

まるで、失くしたはずの体の一部が、まだそこにあるかのように疼くみたいに。


そして、昨夜もまた、あの夢を見た。



それは、いつも同じ風景から始まる。

陽だまりの中で揺れる、白いカーテン。

部屋には、甘くて優しい花の香りが満ちている。誰かが鼻歌を歌っている。僕より少し高い、澄んだ声。

僕の手を引く、温かくて小さな手。ぎゅっと握り返すと、彼女は嬉しそうに笑った。

「とおる、こっちだよ」

名前を呼ばれる。僕の、名前。

その声は、僕の世界の全てだった。


――でも、次の瞬間、世界はノイズに塗りつぶされる。

けたたましいアラート音。焦げ付くような匂い。誰かの悲鳴。

そして、僕の名前を呼ぶ、切羽詰まった声。

「……る! とおる、しっかり……!」

温かかったはずの手が、氷のように冷たくなっていく。

掴もうとしても、指の間をすり抜けていく砂のように、彼女は遠ざかっていく。


『――危険です! 患者から離れてください!』


無機質な、抑揚のない声が響く。

それは、人間の声じゃなかった。



「――っ!」

跳ね起きたのは、明け方の薄暗い自室のベッドの上だった。

心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく鼓動している。全身にびっしょりとかいた冷や汗が気持ち悪い。

「はぁ……っ、はぁ……」

荒い息を整えようと、深く息を吸い込む。窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。いつもの朝だ。

けれど、夢の残滓は、まだ生々しく僕の体にまとわりついていた。

あの温もりも、あの絶望も、まるで本当に体験したことのようにリアルで――そして、ひどく曖昧だった。


「……誰なんだ、あれは」


呟いた声は、掠れていた。

Re:Memoryで消された記憶の断片? それとも、ただの悪夢?

分からない。

ただ、あの夢を見るたびに、胸の奥の「足りない何か」が、より一層強くその存在を主張するような気がするのだ。


今日は、新しいリメアが配属される日。

エル、だったか。事前に通知された、その無機質な記号のような名前。

あいつもきっと、僕の「心のケア」とやらを優先して、この厄介な夢のことも、僕の深層心理から読み取って、適当なアドバイスを寄こすのだろう。

「過去のトラウマが夢に影響している可能性があります。専門医によるカウンセリング、または記憶の再編集を推奨します」

そんなふうに。


(……うんざりだ)


僕はベッドからゆっくりと起き上がり、窓を開けた。

ひやりとした春先の空気が、火照った頬を撫でていく。

神代エデュケーションシティの朝は、今日も完璧にプログラムされた日常を始めようとしていた。


そして僕もまた、その日常という名のレールの上を、何も知らないふりをして歩き出す。

この胸に巣食う、名前のない感情の正体も、消えたはずの記憶の行方も、見つけられないまま。


誰の記憶が、本物なんだろうか。

僕が「僕」だと信じているこの意識は、本当に、僕だけのものなのだろうか――。


そんな答えの出ない問いを抱えながら、僕は新しい学期の始まりへと、重い足を踏み出した。

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