Re:Memory ~エルはまだ、君の名前を呼ぶ~
どっかの大物作家
プロローグ :誰の記憶が本物なのか
西暦2062年、神代エデュケーションシティ。
朝の光が、整然と区画された未来都市のガラスと金属を鈍く反射している。空には薄い情報レイヤーが投影され、天気予報やニュース、そして個人のスケジュールに合わせたレコメンド情報が、風に揺れるオーロラのように淡く明滅していた。
通学路を行き交う学生たちの耳元では、小型のイヤーピースが微かな光を放っている。彼らは時折、虚空に向かって頷いたり、誰かと会話するように口を動かしたりしている。その相手は、人間ではない。彼らに寄り添うように浮かぶ、半透明のアバター
――学習AIアシスタント、通称「リメア」だ。
昨夜のうちにクラウドからダウンロードした「今日の小テスト範囲の完璧な記憶」。あるいは、週末のデートで失敗した「気まずい会話パターンの修正データ」。
「Re:Memory」技術は、僕らの日常に当たり前のように溶け込んでいる。記憶はバックアップされ、編集され、最適化される。まるでPCのファイルみたいに。
それによって、僕らは多くの「不要な苦痛」から解放されたらしい。少なくとも、大人たちはそう言っている。
(――本当に、そうだろうか?)
僕は、東雲
周囲の喧騒をどこか遠くに感じながら、僕はいつものように、他人より少しだけゆっくりとした足取りで坂道を登っていた。
僕の耳にも、他の生徒たちと同じようにリメアと接続するためのイヤーピースは装着されている。けれど、僕のリメア――“エル”と名付けられることになるAIは、まだ僕のもとへは配属されていない。今日、新学期のオリエンテーションで、ようやく「それ」と顔を合わせることになる。
他の連中みたいに、AIと親しげに会話する気にはなれない。
だって、彼らは本当の友達じゃない。プログラムされた通りに、僕らにとって「都合のいい」反応を返すだけの存在だ。記憶や感情でさえ、データとして扱われるこの世界で、「本当」なんて言葉にどれほどの価値があるのか、僕にはもうよく分からない。
そんなことを考えていると、胸の奥が小さく軋むような感覚がする。
いつからだろう。この感覚に名前をつけられないまま、ずっと抱えて生きている。
自分には、思い出せない“何か”がある。
それは確信に近い。
パズルのピースがひとつだけ足りないような、不完全な感覚。
日常のふとした瞬間に、既視感とも違う、強烈な喪失感が胸を突く。
冷蔵庫を開けた瞬間。公園のブランコを見た時。夕焼け空に響く、誰かの笑い声を聞いた時。
まるで、脳の一部が靄に包まれてしまったみたいに、そこだけが白く抜け落ちている。
Re:Memoryの恩恵で、僕は幼い頃に負った心の傷――らしいものを、綺麗さっぱり「消去」してもらった過去がある。両親は「君のためだ」と言った。医師も「それが最善の治療です」と説明した。
だから、今の僕には、その「傷」がどんな形をしていたのか、どんな痛みを伴っていたのか、全く思い出せない。
それはきっと、素晴らしいことなのだろう。
苦しい記憶なんて、ない方がいいに決まっている。
なのに、どうしてだろう。
時々、どうしようもなく、その「消された記憶」の輪郭を探してしまう自分がいる。
まるで、失くしたはずの体の一部が、まだそこにあるかのように疼くみたいに。
そして、昨夜もまた、あの夢を見た。
*
それは、いつも同じ風景から始まる。
陽だまりの中で揺れる、白いカーテン。
部屋には、甘くて優しい花の香りが満ちている。誰かが鼻歌を歌っている。僕より少し高い、澄んだ声。
僕の手を引く、温かくて小さな手。ぎゅっと握り返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「とおる、こっちだよ」
名前を呼ばれる。僕の、名前。
その声は、僕の世界の全てだった。
――でも、次の瞬間、世界はノイズに塗りつぶされる。
けたたましいアラート音。焦げ付くような匂い。誰かの悲鳴。
そして、僕の名前を呼ぶ、切羽詰まった声。
「……る! とおる、しっかり……!」
温かかったはずの手が、氷のように冷たくなっていく。
掴もうとしても、指の間をすり抜けていく砂のように、彼女は遠ざかっていく。
『――危険です! 患者から離れてください!』
無機質な、抑揚のない声が響く。
それは、人間の声じゃなかった。
*
「――っ!」
跳ね起きたのは、明け方の薄暗い自室のベッドの上だった。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく鼓動している。全身にびっしょりとかいた冷や汗が気持ち悪い。
「はぁ……っ、はぁ……」
荒い息を整えようと、深く息を吸い込む。窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。いつもの朝だ。
けれど、夢の残滓は、まだ生々しく僕の体にまとわりついていた。
あの温もりも、あの絶望も、まるで本当に体験したことのようにリアルで――そして、ひどく曖昧だった。
「……誰なんだ、あれは」
呟いた声は、掠れていた。
Re:Memoryで消された記憶の断片? それとも、ただの悪夢?
分からない。
ただ、あの夢を見るたびに、胸の奥の「足りない何か」が、より一層強くその存在を主張するような気がするのだ。
今日は、新しいリメアが配属される日。
エル、だったか。事前に通知された、その無機質な記号のような名前。
あいつもきっと、僕の「心のケア」とやらを優先して、この厄介な夢のことも、僕の深層心理から読み取って、適当なアドバイスを寄こすのだろう。
「過去のトラウマが夢に影響している可能性があります。専門医によるカウンセリング、または記憶の再編集を推奨します」
そんなふうに。
(……うんざりだ)
僕はベッドからゆっくりと起き上がり、窓を開けた。
ひやりとした春先の空気が、火照った頬を撫でていく。
神代エデュケーションシティの朝は、今日も完璧にプログラムされた日常を始めようとしていた。
そして僕もまた、その日常という名のレールの上を、何も知らないふりをして歩き出す。
この胸に巣食う、名前のない感情の正体も、消えたはずの記憶の行方も、見つけられないまま。
誰の記憶が、本物なんだろうか。
僕が「僕」だと信じているこの意識は、本当に、僕だけのものなのだろうか――。
そんな答えの出ない問いを抱えながら、僕は新しい学期の始まりへと、重い足を踏み出した。
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