第16話

つるりとした丸い石に滑って、ぽーん、と川の切れ目から空中に飛んだのだ、と分かったときには胃の腑が持ち上げられた感覚がし、直後に滝壺に全身が叩き付けられてた。水面に落ちた香月の体は上から落ちてくる水の水圧で水の底に押しつぶされ、そのまま圧死するかと思った。息苦しさにバタバタと四肢を動かし、なんとか水面に出ようと試みる。

体が上下逆に落ちたからなのか、背負った籠からは石が全部飛び散ってしまっていて、それが香月を水の上に這い上がることを可能にした。ザバッと水面に顔を出せば、目の前にとどろく水の膜が張っており、滝の裏側に入ってしまったのだと分かった。


(失敗したわ……。玄侑さまが遠くに行くなとおっしゃったのに……)


この滝壺から玄侑がいる上までどれくらい高さを上ればいいのだろう。失敗にうつむくと、滝壺そのものが光り輝いているのが分かった。水の勢いに水底の石がキラキラと光を放っているからなのだと気づいた香月はもう一度籠を背負い直し、ざぶざぶと滝壺に浸かっていった。手放さなかった手巾を握りなおし、水の中の石を探る。上に上るにしても、少しくらい成果がほしかった。


「豪胆な娘だな。体は痛くないのか」


ふと、張りのある男性の声に香月がはっと顔を上げると、人がひとり、滝の入り口に居た。白銀(しろがね)の長い髪を頭の高いところで一括りにした、月白色の着物を着た青年だ。年は玄侑より若く見えるが、神世に居るのだから神かその眷属であり、年齢などないも等しいだろう。

香月は彼に深々と頭を下げた。


「丹早さまに許可を得て、玄侑さまとこの川の石を集めていました。境界を定める鈴鐘を作る材料だとお聞きしていますが、私が力の封入に失敗して、いくつも鈴鐘を壊しているので、それを補うための材料なのです。ですから、大事な鈴鐘のためでしたら、少々体が痛いことなど、どうでもいいのです」

「ほう、丹早に」


男性は面白そうに片眉をあげた。


「あの丹早を頷かせたのなら、お前にはよほどの理由があるのだな」


男性はそう言って、水の上に浮きながら香月に歩み寄り、ずぶ濡れの香月の額に人差し指と中指で触れた。さっと香月が体を引こうにも、体は自由にならなかった。



「ほほう、おもしろい」

「おやめください。御身が穢れます」


丹早を呼び捨てにするこの御仁は、おそらく神世におわす最後のひと柱、白陽だ。丹早には穢れていると言われた自分の体に触れる白陽に憂慮を伝えると、それでも白陽はぐっと指を額に押し当てた。頭部に……、いや、精神に圧迫感を覚え、めまいから吐き気を感じた。


「う……」


香月の頭の中を、ぐちゃぐちゃにかき回され、覗かれている気がする。香月の記憶の全てを彼の眼前にさらしている気がして、恐ろしくなった。

釣り餌にされるしか能がなかった時間。家族に、街の人に忌み嫌われ、存在を消してしまいたかったのに出来なかった日々。拳を握り、歯を食いしばって耐えることも禁じられていた。……黒の血がにじみ出るから。

そんな自分が神聖な神世に居ることを、丹早だって厭ったし、白陽もきっとそうだろう。三柱のうちふた柱に拒絶されたら、流石に神世における玄侑の立場は悪くなるのではないだろうか。彼が……、香月を信じてくれた玄侑の立場が悪くなることは、なんとしてでも避けたかった。


「お前、面白いな。全てに忌避されてなお、玄侑に求められていると思っているのか」


ずくり、と、心の臓に苦い痛みが走った。もしかして、自分は勘違いをしているのだろうか、と。


「あやつもまた、お前を利用しようとしているだけなのではないのか。お前の境遇を逆手に取った、姑息な手法よ」


白陽の口元に浮かぶのは、嘲笑だった。それは玄侑に向けられており、香月はこの瞬間、身の内に燃え上がるほどの怒りを覚えた。


「玄侑さまは、姑息な方ではありません」


はっきりと言った香月の言葉に、白陽は目を見張った。しかし動じたように見えたのはその一瞬だけで、すぐに白陽は最初のような鷹揚な態度に戻った。


「ほう。玄侑と過ごした時間の短いお前が、なにゆえそのように断じる」


挑発的な目が、香月を射貫く。しかし動じることはなかった。だって、短い時間の中でも、香月は玄侑のことを知れたから。だから、言う。堂々と。


「玄侑さまは、私にやさしくして下さいました。玄侑さまは感情の乏しい方ですが、だからこそ玄侑さまの言動は、私にとって意味があるのです」


なしえたことを、褒めてくれた。落ちるはずのない鷹宵の背の上で。案じて手を握ってくれた。あのぬくもりがあれば、香月は玄侑のために何でも出来る。今まで誰も与えてくれなかったやさしさ。体温。思い出すだけで心の臓が走り、体の内から力がわいてくる。

支えられている。香月が二本の足で立って歩むために、玄侑は支えてくれるのだ。その上で、力を貸せと言ってくれる。導いてくれる。その一連の行動を、利用したいからだけだとは思わなかった。もはや最初の契約は、彼の言動によって、色を変えていた。


「成程。ではお前の恩人である玄侑に、さぞかしそう伝えたいだろうな」


その言葉に首肯したい衝動をぐっと堪える。

玄侑を信じ、彼の行動に胸を弾ませはするが、それを言ってはいけないと思っている。香月は自分が何かをすることで、彼の自分に対する言動が変わってしまうのが怖い……、そう、危惧している。

気持ちを預けることの危険性を、香月は知っている。それでも、玄侑に心の視線が向くのを止められないことを、香月は白陽と話すことによって理解した。


(そうなのだわ……。私は、玄侑さまのやさしさを、本当だと信じているのだわ……)


かつて、母が自分を愛してくれていると信じたときのように。

信じているから、彼から発されるやさしさは香月の心の臓を弾ませる。意欲がわく。元気がわく。そういう効果をもたらしていた。それは香月が勝手に感じていることであり、玄侑が聞かされても、彼だってどうしたらいいか分からないだろう。だって彼は、そんなことを意図していない。だって玄侑と香月の間にあるのは、契約だけだ。


(伝わらなくたっていい。だって私はいっとき玄侑さまのお手伝いをするだけのお約束だもの……)


この、喉から外に出たがっている、むずむずそわそわとした、なんとも落ち着かない気持ちは、なんとなく表出させてはいけないものだと、培ってきた臆病な心がそう言っている。

それに、玄侑に背を支えられて二本の足で立ち、歩みを覚えているが、その喜びを彼に言った結果、彼が彼らしくなくなってしまうことの方が、良くないと思うのだ。


丹早や白陽と対面した今なら分かる。二人が鷹揚で香月に好意的でないのと違い、玄侑は感情を表出させない。理由は分からない。しかし、丹早に厭われた言葉から推察するに、彼は自分を罪なる存在と認めているのではないか。そう思う。


何故だかは分からないが、神たる玄侑が、香月や妖魔と同じ黒の気配を発することがある。神渡りのとき。丹早と会話したとき。いずれも彼が怒りをはらんだときだった。鷹宵が言っていたことを反芻すれば、その現象は理解できる。それが故に、彼はそうならないために、感情を殺したのではないかと、そう思うのだ。とすれば、白陽の甘言に乗れば、今以上に玄侑に罪の意識を負わせることになる。


(玄侑さまのご努力を、私が壊すわけには行かない……)


香月が玄侑に対して信頼以上のものを寄せているからといって、意図的に感情を殺している玄侑に何かを求めるのは、間違っていると思う。だから、彼の行いを歪めるようなことを自分がするわけにはいかないのだ。彼が、夜を冠たる黒神として正しくあってほしいから。香月は一度目を伏せ、心を落ち着かせた。次にまぶたをあげると、白陽をまっすぐ見る。


「言いません。その必要が、ないからです」

「必要があれば、言うのか」

「玄侑さまは、必要だと思われないでしょう。だから、言いません」


香月の言葉に、白陽は片方の眉と、口の端をあげた。


「面白い。玄侑の状態は、俺も案じているところだ。やつが上手くことを収める為なら、お前に助言をしてやってもいい」


今の問答で、白陽が何を思ったのかは分からないが、玄侑のために自分が出来ることがあれば、喜んで行いたい。香月は白陽の前で背を伸ばした。


「お前自身、妖の気配はするが、元の気は清いものだから、それについては懸念するな」


(もとは清い?)


疑問が浮かんだが、言葉が続いたので口をつぐむ。


「人の器にしては大きすぎる力を宿している。やつが術を施したせいで、人の形を保っていたのだろう。玄侑にとってはけがの功名とでもいうところだ」


やつ……。玄侑も香月の力を封じていたのが、『やつ』であると言っていた。妖魔を生み出しているものが香月に術を掛けたことで、人として長らえてるのであれば、香月は自分に蓮平での人生を歩ませたものを憎んだらいいのか感謝したらいいのか、分からなくなってしまう。


「だからお前は堂々と自分が幸せになるために力を行使すれば良い。入れ物などいくらでも作れば良いだろう。それこそ丹早が頷いているのだから」


そう言って白陽が腕を掬うように下から上へと振ると、大きな水音とともに滝壺の底の輝く石がたくさん不思議な力で持ち上げられ、香月の前に塊として浮かんだ。ふわふわと空中に浮かぶ石の塊は、白陽が腕を振ると今度は滝壺の岸に落ちていた背負い籠にきちんと収まった。また白陽が腕を振れば、今度は石の入った背負い籠が香月の背に掛かり、しかもそれは重さを感じなかった。

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