第6話


そう、嬉しかった。黒の血を身の内に持ち、人々に忌み嫌われていた香月にとって、視線の刃は当たり前だった。言葉の刃は言わずもがな。ここでは、そういうものがない。香月が主である玄侑を救う、と信じている鷹宵や夜斗は兎も角、損得勘定で香月を助けた玄侑が、その理由とは別で香月にやさしい事実に、香月の心はやわらかな羽根が撫でられたような心地になったのだ。

香月の返答に、玄侑はわずかに瞳を開いた。しかし直ぐに元の心情が読めない顔になる。


「契約したことについては十分に尽くそう。しかしそれ以上のことはしない」


媚びたと思ったのだろうか、そっけないほどの温度で、玄侑は言う。しかし受け入れられた直後に拒絶を見るくらいなら、最初から期待しない方がいいということは、今までの経験で痛いほどわかっている。そう言う意味でいうと、玄侑の言葉は香月に対して余分な何をも与えず、かえって彼の言葉を信じられた。


「承知しております」


香月が頭を下げるのも見届けず、玄侑は香月に背を向けた。玄侑が去った後、香月の隣で、鷹宵が驚いた、と呟いた。


「鷹宵さん……?」

「ああ、失礼。驚愕する玄侑さまというのを、初めて見ましたのでね」


驚く……?

きょとりと目を瞬かせて鷹宵を見るが、彼は香月を見つめ、そして玄侑が立ち去った場所を見た。


「ええ。玄侑さまは表情に乏しいので香月さまには分からないかもしれませんが、今の玄侑さまは驚いておいででした。人間どもは玄侑さまを嫌っているので、香月さまからやさしいなどと言われるとは思ってもみなかったのでしょう」


人間が? 玄侑を嫌う? しかし桔梗たちは黒神の力を分けてもらうべく、今日も準備をしていた。力を授けてくれる神さまを、嫌う人が居るのだろうか。


「ほう。香月さまは玄侑さまと人間どもとの間に交わされた契約をご存じではないのですか?」

「あ……っ、申し訳ありません……。私は生まれこそ五家のものですが、破妖の仕事はしていなかったので、黒神さまと五家の間の取り決めについては、何も知らないのです」


香月の返答に、鷹宵は、なるほど、と顎に手をあて香月に問うた。


「まずそもそも、五家はいつから破妖の仕事をするようになったか、ご存じですか」

「いいえ……」


素直な返事に、鷹宵は頷く。


「破妖の仕事に従事しておられなかったのなら、そうかもしれませんね。あるいは、破妖の仕事をしていても、今の五家の者に、その理由を知っている者がいるかどうか」


五家は古くから破妖の仕事をしている由緒正しい家柄なのだ、と父母に聞かされていた。彼らはそのことを誇りに思い、それゆえに、破妖の仕事をできる桔梗を褒め、出来ない香月を罵った。だが、誰も何故自分たちが破妖の仕事をしているのかについては、語らなかったように思う。鷹宵は続ける。


「そもそも、この国を支える神が三柱居られることは、ご存じですね?」


初めて聞くことに、香月は目を大きくして首を振った。しかし鷹宵は、知らなかった香月を咎めなかった。


「そうですか。この国は神の力で守られていますが、神の力が一柱のみの采配によると、万が一の時に、国を守れなくなる。それで始祖の神はその力を自らから産んだ三柱の神に配分しました。その神々こそが、今この国を守っている三柱なのです。玄侑さまは、そのうちのひと柱で在られます」


そうだったのか。始祖の神についても、三柱の神についても、香月は何も知らなかった。


「三柱の神は、始祖神の力をこの国に循環させるべく、それぞれ役割を担っておられます。具体的に申しますと、『熾、定、滅』の三つのことで、詳しく言うと、神力を『熾す』、薄めて神気として人世に『定着させる』、その気を『消滅させる』という三段階の扱いについて、それぞれの神がその身に時と色を宿し、責任をお持ちになっておられるということです」


生み出す朝日の色、『熾』。平らかに過ごす昼の陽色、『定』。そして全てを終える夜の色、『滅』。


「それぞれの神は人世のためにご自分の時間に、それぞれの責を果たしておられます。夜に満ちているあなた方の言う妖気が朝に改まるのは、その為です」

「では、玄侑さまは、そのうちのどれかの役割を担っておられるのですね」


自分を救ってくれた玄侑のことを学べて嬉しい。そう思った香月に、鷹宵は目をすがめた。


「そうです。玄侑さまは神気を『消滅させる』というお役目を担っておられます。……それが、人間どもにどう思われることか、お分かりになりますか。香月さま」


ひやり、と声を鋭くして、鷹宵は言った。彼の雰囲気を敏感に察知して、香月は居住まいを正す。


(私たち人間が、玄侑さまをどう思うか……? 破妖の力を与えて下さる神さまだもの……。とてもありがたいと思うはずだけど……)


「……崇拝する、とは別の感情ですか……?」


香月の言葉に、鷹宵は皮肉げに口の端を上げた。


「そうであったら、どんなにいいか……。良いですか、香月さま。玄侑さまは人世に満たされ、定着した神気を消す役割を担っておられる。神の力に守られている人間が、その力を消そうとする神に対して、どんな感情を抱くか、想像してみてください」


はっとする。玄侑の力は、人々が享受している益を消滅させる……つまり奪う力だ。自分たちの益を奪う存在に、彼らがどんな感情を抱くか、考えればすぐに分かることなのに……。


「も、申し訳ございません……。考えが至らず……」


肩を縮ませて、謝罪する。鷹宵は嘆息しながら言った。


「人間がそのように考えている、という事実に、私たちはもう慣れました。ですが、慣れることと、むなしさを感じることは別であると、ご承知おきください」


香月は口の端を引き締めて頷く。


「ですが、鷹宵さん。何故、人世に満たして頂いた神気を消す必要があるのでしょうか……。始祖神さまは人世に神気を満たすことが必要であるとお考えになられたのだと思います。玄侑さまが人世の神気を消すというお役目はそれにそぐわない気がしますし、そうでなければ、玄侑さまは人に嫌われることはなくなると思いますが……」


香月の問いに、鷹宵は片眉を上げて、黒い瞳を陰らせた。


「濁るのですよ」

「濁る……?」

「そうです。神気はいつも一定ではありません。その性質はどんどん変わり、妖魔が妖世(あやよ)から出てきやすくなります。神々の住まう神世であればそうはなりませんが、人間のもつ負たる感情はひどく醜く汚れている。神気に影響しないわけがないでしょう」


人世を守るべく施された神気が、人間の所為で濁る。それが香月たちの言う妖気、というものらしい。妖気は妖魔を妖世から引き寄せる。だからそうなった神気を、消し去らなければならない。


「特に、神の力を携えながら、怒り、憎しみに暮れるのがいけない。五家は粛々と役目を果たさねばならなかったのですが……」


鷹宵が飲み込んだ言葉を把握する。五家は神の遣い手として、己を律すべき家系でもあったのだ。鷹宵の話は続く。


「それに最近……、そうですね、十六~七年前くらいからは特に人世に惹かれる妖魔が多い。人世の神気を滅する玄侑さまは苦慮しておられます」



鷹宵は苦々しい表情を浮かべて、そう言った。……であれば、玄侑は人間の行いの後始末をしていることになる。その彼が桔梗たちにあの態度であったのは、神と人という以上に、理解できた。香月は一介の人間として、玄侑と彼を支える鷹宵、それに夜斗に対して罪悪感を覚えた。


(玄侑さまは、どんなお気持ちでいらしたのだろう……)


香月も、家族に捨て駒のように扱われていた。しかし玄侑が人間と相対してきたときに感じてきた感情は、それよりもはるかに空虚なものだっただろう。自分の行うことに意味はあれど、それを理解してもらえない不毛さ。その満たされない空洞の大きさは、香月には測ることのできないものだ。


そこまで思い至って、ふと気づく。


「あの……、玄侑さまは蓮平……五家に力を与えて下さる方と教えられております。五家は玄侑さまのお役目のお手伝いをしているということですか……?」

「まあ、簡単に言えばそうなります」


鷹宵が香月を観察するような視線をよこした。頭に浮かんだ疑問に、ごくり、と喉が鳴る。つまり。


「妖魔は……、始祖神さま由来の神気なのですか……?」

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