14章

 ダンカン氏が隠していたのは、魔導書の秘技そのものだった。存在それ自体が持つ力――人間で言えば、情報――の直接的な交流。脳内神経シナプスが単純な繋がりと電気信号で力をやりとりし、そのネットワークの集積が如何に強大な作用をもたらしたか、それは人類の文明が証明している。会話、侵攻、生殖、貿易、社会のすべては体組織の延長であった。延長に過ぎなかった。

 ミトコンドリアを細胞内に匿ったように、人類は宇宙を走る電気を取り込んでいたのだ。個体でも液体でも気体でもない、純粋な力の炎を。科学的に説明されてきたそれを、"DYRUGELNEHD"は精神的な力として説いた。体組織に括られた人間の手には余る、存在本来が発する別次元の交流。有賀裕哉はそれに触れた。古来の稀覯書には宇宙の電気を喚ぶ韻が記されている。それはある意味で既に生命に内在しており、神の発する電気と磁的に引かれあう。挿し絵は、次元と次元の間隙を跨ぐインターフェイスの生成方法を記していた。今の中谷なら、有賀と同程度にその細部を知っている。

 完璧な内容。必要なものはすべてそこに載っている。ジェイムズ・D手稿が注意深く徹底的に抹消した魔術は、類稀な洞察と高い知性を持つ有賀のものとなった。宗教的神性の物語を人類学と束ねて編み上げる有賀がその引力に抗うことなど、できようはずもない。

 気づかぬうちにその淵まで来てしまった世界の暗部を前に、中谷は、ようとして知れない闇へ歩み入るかつての学友の背を見ている。すべてを知らされた今となっても、狂える男を止める術だけが分からない。


「緑色の外宇宙……神の電流……偏リが秩序の量を決め……精神でサえも熱力学的デ……橋……塔ヨ……門よ……」

 一晩中明るい「蓮華ハイム 204号室」で、PCの画面を見ながら男が呟いている。乾いた髪が枝分かれて広がりながら顎まで垂れ、火の点いていない煙草を唇の端にくわえている。壜の幻影がその視界に映り込む。それは脈打ちながら浮かんでおり、中からは実体のない音の響きが――銀河に鳴り響く神への信号――人類が辿らぬELENDERINの調べが聞こえる。透き通るガラスを通して、連続する閃きが見える。一瞬のその光の中に、時間は濃縮された泥の如く見え、泥の中には、ひしめき合い蠢く世界のあらゆる局面が見えた。

 不規則に空から降る電流がまた有賀の脳髄を貫いた。右手の親指と人差し指がギクリギクリと強ばって反り返り、すぐに戻る。すぼまる喉から細く軽い息がひゅっと吹き出て、煙草が床へ落ちた。

「こコだ……ここです」

 再び神霊の術じみた幽かな落雷が有賀を打つ。銃眼の向こうの情景が直に刻み込まれる。"DYRUGELNEHD"の決定的な韻を知り、唱えた瞬間から、それは続いていた。男が宇宙を見上げたとき、宇宙もまた男を覗き込んだのだ。

 有賀は煙草を拾い上げて火を点けた。彼の準備はできており、目的地を見いだしたモノクロのコマンドラインを閉じる。

 Mの西の空からは、雷雨を伴う強力な低気圧帯が迫っていた。

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