3章

 こうして有賀と中谷は、古色漂い摩擦と劣化に翻弄されてきた奇怪なる手稿と出会った。ダンカン氏が何者で、手稿の目的が何なのかは目下のところ不明だったが、氏はロシアへ遠征中に事故死していたことが有賀の口から語られた。

 台風が過ぎ、次の台風が過ぎ、そのまた次の台風が過ぎ去るまで、手稿の内容が二人の間で読み交わされた。青臭い初夏の微風はいつの間にか晩夏の滞る熱気に絡め取られて、殺人的な灼熱の外気と致命的な極寒の空調の狭間で、骨董品たるジェイムズ・D手稿は慎重に扱われながら方々の喫茶店で中谷と有賀の知識欲を潤していた。

 手稿の英語はイギリスのものでもオーストラリアのものでもなく、アメリカは恐らく東側のものと見受けられた。有賀いわく、コミュニティの断片的な情報によると著されたのは1883年で、同時期のアメリカ英語の構文や言い回しとの一致も見られた。訳や情景の説明がテキストで記されている一方、かなり線のはっきりしたスケッチと注釈で内容が示されている部分もある。さらにはダンカン氏の頭の柔らかさ、深遠な想像力を偲ばせる簡潔なフローチャートめいたものまで綴られていた。こうした明示的な記述は明らかに原本にはなかったと思われるほど親切で、読解の助けになる工夫が随所に見られる。

 にも関わらず、中谷と有賀はこのアメリカの見知らぬ年長の友人からのメモを読み解くのに些か力不足だった。現代英会話ではカバーできない言い回しや、具体的なカレンダーや地勢図に置換されているものの甚だ抽象的な図示の数々に頭を捻り、ダンカン氏の指導を受けながら謎解きを試みているかのような研究の日々を送っていた。

 概略を示すだけでも慎重に言葉を連ねる必要があるこの手稿は、奔放な物語の断章を書き留めたような体裁でありつつ、一種の説明書のようでもあった。というのも、錬金術の奥義書がキリスト教倫理に沿うように三位一体を目指す方式を著したが如く、ジェイムズ・D手稿の表現はどこか比喩を宿しているように見受けられたし、正常な文脈で実際的に文節を読み解くよりかは、大雑把なメタファーの連続で成り立っていると仮定する考えの方が、読解の上で有用な指針と成り得たのである。非常に回りくどい経路を辿っているものの、茫洋に漂泊するある種の目的に至る手順を表現しているらしかった。

 あるとき、有賀は喫茶店で灰皿に吸い殻を積み重ねながら中谷に語った。

「ジェイムズ・D手稿は奔放な散文詩集か哲学書に見えるが、何なのかといえば独特な解説を有する史記だ。まあ、どの側面も持っていると言って良いだろうな。もちろん著者が意訳して簡潔にしている部分はあるが、慎重な注釈のおかげで、原本が普通でなく難解な書物だったことが容易に判る。一笑に付すのは惜しい――

「お前さんも確認した通り、民族移動に関して述べているところは史実と一致するし、予示と題されている知識の多くは現代の科学が提唱しているところと大部分を同じくしている。ここに書かれているようなプレートテクトニクスや化学合成生態系の正確な知識が、実験方法もない時代の妄想で書かれたとは、どうあっても信じ難い。さて、どう解釈したものかな」

 有賀はこの手稿をいたく気に入っており、少年のような瞳をしてこの話題を繰り返した。ここのところは、この半地下の喫茶店で最安値のブレンドコーヒーに嫌みなほど砂糖を放り込んで、心を掴まれた手稿の考察を展開するばかりで、中谷はといえば、確かに論じられている事実は正確で、各国の帝政が衝突し合った争いの歴史についてもその細かい部分まで反映されていることから、一定の信頼を置くに値する書籍だとは考えていた。しかしそれはこの手稿の原本が秘めた驚くべき素性というよりかは、手稿を記したダンカン氏の柔軟な英訳のおかげではないかという視点も忘れずにいた。そして陰鬱なことに、氏が既にこの世を去っていることも、有賀の興味を引いた要因の一つだった。

「なぁ、有賀」

 中谷はよくこうして学友を諭した。

「オカルトサークルに片足を突っ込んじゃいないか? 興味深い本だとは思うが、肝心なのはこの本から俺たちがなにを読んでどの知識と組み合わせるか、だ。本を読むどころか、お前は本に読まれちゃいないか?」

「上手いことを言うな」

「お前にとってはグリモワールでも、眉に唾を塗っておけよ」

「恐れ入るねぇ」

 有賀はいつも楽観的に返したが、やがて中谷と会っているときは手稿についてあえて触れることはなくなっていった。中谷は中谷で、1805年のアウステルリッツの戦いでナポレオン・ボナパルトが敗れた場合の戦後情勢をシミュレートしたり、各大陸の人種ごとの骨格の差異が戦闘技術にどう影響したのか調査するなど個人的な研究に忙しくしており、従って二人の間でもこの不可思議な書籍のことはいつの間にか忘れ去られたかのようだった。

 しかし有賀の興味は元々、数多くの分野に跨っていた。意図的にしろそうでないにしろ、水面下で特定の書物について研究を進めることなどありふれた手法で、秘技でも何でもないことだったのである。独学こそが彼の武器であった。

 それゆえ中谷の元へ有賀から次の連絡があったとき、中谷は諦めに近い呆れを感じたのだった。実際にはその出来事は、有賀裕也という人間が尋常でない破滅へ向かう分岐点に立った瞬間だったのだが。

「あの手稿の原本が手に入った。少なくとも、ダンカン氏によって訳される前の原本の写しが」

 電話口からこう伝える有賀の声色は柄にもなく上ずっていて、緊張と高揚を隠せないでいるのが中谷には分かった。

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