雪の廃団地へ

 一月下旬の夜空は重い雲に覆われ、時折舞い散る雪が街灯の光を受けて白い羽根のように舞い踊っていた。郊外への電車は乗客もまばらで、車窓に映る景色は次第に暗闇へと溶けていく。


「ここまで来ると俺の勘も騒ぎ始めるな。普通じゃない『気配』がどんどん濃くなってる」


 翔也が呟くその隣で、湊が持参したビデオカメラの設定を最終確認していた。普段は温和な彼だが、こういうときの集中力は晴音や遼と同じで人一倍だ。

 それを見つめながら泰河が不安そうに問いかけた。


「記録って言っても、もし本当にヤバいもの映っちゃったらどうします? 呪いのビデオとかになっちゃいますよ?」


「ふふっ、それはそれで、いい怪談のネタになるだろ?」


「ひえ……湊先輩、たくまし過ぎるってばよ……」


 泰河の表情がみるみる青ざめていく。

 そんな会話を交わしているうちに、電車は目的の駅に到着した。ホームに降り立つと、都心とは比べものにならない寒さが四人を襲う。


 駅前のバス停で待つこと十分。やってきたのは年季の入った古いバスで、運転手も高齢の男性だった。四人が乗り込むと、運転手は不思議そうな顔をする。


「こんな時間に団地跡の方面かい? もう誰も住んでないよ、あそこは」


「大学の課題で廃墟の写真を撮るんです。夜景のほうが雰囲気出るので」


「そうかい。気をつけなよ、あの辺りは街灯も少ないし、最近は変な噂もあるからな」


 運転手の言葉に、四人は顔を見合わせた。変な噂というのは、間違いなく例の都市伝説のことだろう。

 バスは住宅街を抜け、だんだんと人気のない道路を走っていく。窓の外は雪化粧をした田畑が続き、時折見える民家も明かりが点いていない。


 やがてバスは団地前に到着した。降りてみると、そこは本当になにもない場所だった。バス停の小さな街灯だけが頼りない光を放っている。


「あそこだ」


 翔也が指差す方向に、雪に覆われた建物が見えた。かつては団地だったそれらは、今や廃墟と化している。街灯もなく、建物は闇の中に不気味なシルエットを浮かべていた。


「やばい……俺の勘がすごく騒いでる。普通じゃない『重さ』がある。これまで調査した場所とは次元が違う」


 翔也が立ち止まって言う。

 陽菜乃のお守り袋も、微かに鈴の音を響かせている。


「あたしも感じる。すごく重い空気」


「うう……なんか足が動かない……引き返そうよ、お願いだから」


 情けない声を上げる泰河に、陽菜乃が微笑んでみせる。


「だめよ、泰河。ここまで来たんだから。それに、泰河がいないと霊が視えないでしょ」


「翔也先輩もいるじゃん……」


「俺より泰河のほうが強いんだよ。ほら、行くぞ。三棟のうち、真ん中の棟の三階だったな」


 翔也が懐中電灯を点けながら先頭に立つ。

 廃団地の入り口は、かつて管理事務所だった建物の横にあった。鉄製の門扉は錆び付いており、隙間から敷地内に入ることができる。


「足下に気をつけろよ。雪で見えないけど、ガラスの破片とかが落ちてるかもしれない」


 翔也の警告通り、足下には様々な物が散乱していた。懐中電灯の光が照らし出すのは、錆びた空き缶、割れた瓶、腐った木材の破片など。雪が積もって白く覆われているが、その下には二十年分の荒廃が蓄積されている。


 真ん中の棟の入り口は、ドアが外れて大きく口を開けていた。中に足を踏み入れると、懐中電灯の光が壁に落書きの数々を浮かび上がらせる。


「『ここは呪われている』『一人で来るな』『三階を見るな』……って、みんな例の都市伝説を知ってるんだね」


 湊が落書きを読み上げる。

 陽菜乃が玄関の開いた部屋を覗き込んだ。


「一階は住人が残していった家具がそのままですね。テーブル、椅子、古いテレビ……生活の痕跡がまだ残ってる」


 一階を一通り確認したあと、四人は階段に向かった。コンクリート製の階段は所々でひび割れており、手すりの鉄部分は錆が浮いている。


「二階に上がるぞ」


 階段を上がる足音が、廃団地の中に不気味に響く。二階の廊下は一階よりも荒れており、天井の一部が崩落して瓦礫が散らばっていた。

 湊が突然声を上げる。


「ここ、血痕があるよ」


 懐中電灯の光が照らしたのは、廊下の床に点々と続く赤黒い染み。雪が吹き込んでいるにも関わらず、まだ完全に消えていない。翔也が膝をついて確認する。


「新しい血だ。一週間以内のものだな」


 血痕は階段の方向から続いており、三階に向かって点々と残されている。


「とにかく行ってみよう。必ず真相を突き止める」


 三階の踊り場に到着すると、明らかに空気が変わった。一階、二階とは比較にならないほどの重苦しさが漂っている。


「やばい……やばいよこれ。なにかがいる。はっきりと感じる」


 後ずさりして転びかけた泰河の肩を、翔也が支えた。


「俺も同感だ。ここは本当にヤバい」


 三階の廊下は他の階よりも暗く、懐中電灯の光もなんとなく弱々しく感じられる。そして廊下の奥、一番突き当たりの部屋から、微かな光が漏れているのが見えた。

 湊がビデオカメラを向けながら呟く。


「見てよ……本当に明かりが点いてる」


「あの部屋だ。真澄が『呼ばれた』のは」


 問題の部屋の前まで来ると、ドアの隙間から微かに聞こえてくる声があった。


『おいで……こちらへ……』


 女性の声のようでもあり、男性の声のようでもある。複数の声が重なっているように聞こえる。


「聞こえる?」


 陽菜乃が振り返って確認すると、翔也が頷いた。


「ああ。俺にも聞こえる。『おいで』って言ってる」


 部屋のドアは古い木製で、ペンキが剥がれて下地の木材が露出している。ドアノブは錆び付いているが、まだ動きそうだった。


 翔也がドアノブをゆっくりと回すと、軋むような音と共にドアが開いた。中から温かい空気が流れ出してくる。外の寒さとは対照的な暖かさだった。


「暖かい……なんでだ? 電気も通ってないのに」


 懐中電灯の光が部屋の中を照らし出すと、予想外の光景が広がっていた。部屋の中央には古いこたつが置かれており、その上に石油ランプが灯されている。ランプの炎が部屋全体をオレンジ色の光で照らしていた。


「こたつ……? 誰が置いたんだろう?」


「ランプも新しいぞ。燃料も十分に入ってる」


 湊と翔也が困惑した様子で部屋の中に足を踏み入れると、温かさが全身を包む。まるで暖房が効いているかのようだった。泰河が陽菜乃の背後で呟いた。


「視える……人影がいる……四隅に立ってる」


「ああ。俺も視える。老人と、中年の男性……若い女性も……みんな暗い顔をしてる」


 翔也が懐中電灯で部屋の四隅を照らした。泰河の声が次第に小さくなる。


「すごく……寂しそうで……苦しそうだ……」


 部屋の壁に文字が浮かび上がり始めた。赤い文字で、まるで血で書かれたように。


『一人じゃない、一人じゃない、一人じゃない』


 その瞬間、入ってきたドアが勢いよく閉まった。ドアノブを回しても、押しても、全く開かない。


「出られない……閉じ込められた……」


 湊は何度もドアを押し続けている。

 石油ランプの炎が急に大きくなり、部屋全体が異様な明るさに照らされる。そして、四人を取り囲むように、なにかの気配が濃くなっていく。


「来る……なにかが来るぞ」


 翔也の言葉に反応するように、陽菜乃のお守り袋が光り、銀の鈴が警鐘を鳴らすように激しく響いた。


「みんな、しっかりして! 一緒にいれば必ず大丈夫」


 部屋の温度は急激に下がり始め、今度は吐く息が白くなるほど寒くなった。石油ランプの炎だけが、まるで生き物のように激しく燃え続けている。


 そして、部屋の四隅から、かすかな嗚咽のような音が聞こえ始めた。それは悲しみと絶望に満ちた、人間の最も深い苦しみを表現するような音だった。


「始まった……」


 翔也が覚悟を決めたように呟く。


「真相解明のときが来たな」


 四人は互いの手を握り合い、未知なる恐怖に向き合う覚悟を決めた。部屋の中で、何十年も続く孤独と絶望の物語が、ついに動き出そうとしていた。

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