過去の悲劇の発覚

「緊急事態だ」


 真澄の声が部室に響いた。泰河からの連絡を受けて駆けつけた真澄、紅葉、そして遼の三人が、眠り続ける陽菜乃を囲んで深刻な表情を浮かべていた。


「どのくらい眠り続けてるんだ?」


 遼が陽菜乃の脈を確認しながら尋ねる。医学部ではないが、理系らしい冷静さで状況を把握しようとしていた。


「もう三時間です。それに、体温がどんどん下がってて……」


 晴音が震え声で答える。実際、陽菜乃の体温は人間の正常値を大幅に下回っていた。このまま下がり続ければ、生命に関わる危険性もある。


「写真を見せてくれ」


 真澄が晴音のデジカメを受け取った。液晶画面に映る写真を見つめ、眉をひそめる。


「確かに、陽菜乃以外の影が写ってる。しかも、かなり鮮明だ」


 写真の中で、陽菜乃の隣に立つ女性の影は、まるで生きている人間のようにはっきりと写っていた。顔は見えないが、髪型や体型から若い女性であることは間違いない。


「紅葉、三号館について調べられるか? 過去に事件があったはずだ」


「もう調べ始めてるよ~」


 真澄の問いかけに、紅葉がノートパソコンを広げながら答えた。彼女の文献調査能力は群を抜いている。大学の図書館データベースにアクセスし、過去の新聞記事や学内資料を次々と検索していく。


「二十年前、九月二十八日。建築学科三年の森川佳代もりかわかよさん、三号館非常階段で転落死……自殺の可能性が高いとして処理……」


「自殺……」


 遼がつぶやく。


「でも、それだけじゃないですね~」


 紅葉がさらに画面をスクロールする。


「この森川佳代さん、解離性同一性障害を患っていたって記録があるの~。当時の学生相談室の資料に残ってるよ~」


「解離性同一性障害?」


 晴音が首をかしげる。


「多重人格のことだよ」


 遼が説明する。


「一人の人間の中に、複数の人格が存在する精神的な病気。患者は自分が誰なのかわからなくなったり、記憶が曖昧になったりする」


「そして……」


 紅葉が続ける。


「佳代さんの日記が一部公開されてるんだけど……これを見て~」


 画面に表示されたのは、手書きの日記のコピーだった。几帳面な文字でびっしりと書かれている。


『九月十五日 また、もう一人の私が出てきた。鏡を見ると、私じゃない私が映ってる。完璧で、美しくて、私なんかよりもずっと価値のある私が。でも、その私は冷たい目をしてる。まるで本物の私を軽蔑してるみたいに』


『九月二十日 もう一人の私を写真に撮ってみた。でも写るのは私だけ。本当の私はどこにいるの? 完璧な私と、ダメな私と、どっちが本物なの?』


『九月二十五日 非常階段で写真を撮り続けてる。午前四時がいい。人がいないから、もう一人の私と向き合える。きっといつか、本当の私が写真に写るはず』


「これは……」


 いつも冷静な真澄の顔が青ざめた。


「佳代さんは毎日午前四時に、三号館の非常階段で自分を撮影していたのか」


「そして最後の日記……」


 紅葉の声がさらに震える。


『九月二十八日 今日こそ本当の私を見つける。もう一人の私が写真に写ったら、私は本物になれる。完璧な私になれる。そうしたら、もう苦しまなくていい』


 沈黙が部室を支配した。


「つまり……陽菜乃が撮った写真に写った影は……」


 泰河がかすれた声で言うと、真澄が重々しく頷いた。


「森川佳代さんの霊の可能性が高い。そして、陽菜乃は今、佳代さんの霊に引き込まれている」


 そのとき、ソファの陽菜乃が突然、体を震わせた。


「陽菜乃!」


 泰河が慌てて駆け寄る。しかし、陽菜乃は目を覚まさない。閉じたまぶたの下で眼球が激しく動いており、明らかになにかを見ている状態だった。


「レム睡眠が異常に長く続いてる」


 遼が陽菜乃の様子を観察しながら言う。


「きっと森川佳代が陽菜乃を夢の中に引き留めている」



****



 夢の世界で、陽菜乃は非常階段の変化に驚愕していた。

 コンクリートの壁には無数の亀裂が走り、手すりは錆で赤茶色に変色している。階段の一部は崩れ落ち、足を踏み外せば転落してしまいそうな状態だった。


 そして、もう一人の陽菜乃は、その崩れかけた階段を平然と上り下りしていた。


「危ないよ! 落ちちゃう!」


 陽菜乃が叫んだが、もう一人の自分は振り返らない。相変わらず背中を向けたまま、機械的に階段を移動している。


 そんなとき、もう一人の陽菜乃の姿が突然変化した。


 髪型が変わり、服装も見慣れないものになった。それは現代的なファッションではなく、少し古いスタイルだった。


「あなた……誰?」


 陽菜乃が恐る恐る声をかけると、もう一人の存在がゆっくりと振り返った。

 今度は陽菜乃の顔ではなかった。二十代前半と思われる女性の顔。美しいが、どこか病的で儚げな印象を与える顔立ちだった。そして、やはり瞳は深い闇のような空洞になっていた。


『私は……森川佳代。二十年間……ずっと待ってた……』


 佳代の霊が続ける。


『本当の私を……見つけるために……でも見つからない……だから……』


 佳代の霊がゆっくりと陽菜乃に近づいてくる。その瞬間、陽菜乃は恐ろしい事実に気づいた。

 佳代の霊体が、だんだん陽菜乃の姿に変化しているのだ。髪型、服装、体型、すべてが陽菜乃そっくりになっていく。


『あなたが……私の代わりになって……』


「え……?」


 陽菜乃は後ずさりした。しかし、足元の階段が崩れ始め、身動きが取れない。


『完璧な私になって……そうすれば……私は楽になれる……』


 佳代の霊が手を伸ばしてくる。その手に触れられたら、きっと陽菜乃の魂は佳代に奪われてしまうだろう。


「やめて! あたしはあたしよ!」


 陽菜乃は必死に抵抗したが、夢の世界では物理的な力が通用しない。佳代の霊の手が、陽菜乃の頬に触れた。

 瞬間、激しい寒気が陽菜乃の全身を駆け抜けた。まるで氷水の中に放り込まれたような、凍りつくような冷たさだった。


「あ……ああ……」


 陽菜乃の意識が薄れていく。佳代の霊が、陽菜乃の中に入り込んでくるのがわかった。二つの魂が一つになろうとしている。

 このままでは、陽菜乃は陽菜乃でなくなってしまう。



****



 現実世界で、陽菜乃の体に異変が起きていた。

 体温がさらに下がり、呼吸が浅くなっている。そしてなにより、顔立ちが微妙に変化していた。


「おい、なんか陽菜乃の顔が……」


 泰河が震え声で言う。


「違う人に見える」


 確かに、陽菜乃の顔は普段の彼女とは異なる表情をしていた。より整った、人形のような美しさを帯びている。しかし、その美しさは生気を欠いた、冷たいものだった。


「佳代さんの霊が、陽菜乃に憑依しようとしてる?」


 真澄が緊迫した声で言う。


「このまま放置すれば、陽菜乃の人格が完全に乗っ取られる可能性がある」


「そんな……どうすればいいんですか?」


 晴音が涙声になる。


「まず、陽菜乃を夢の世界から引き戻す必要がある。ただ、強制的に起こすのは危険だ。魂が体に戻らないまま目覚めてしまう可能性があるから」


 遼が冷静に分析する。


「じゃあ、どうやって……」


「佳代さんの霊を成仏させるしかない」


 真澄が決然と言う。


「彼女が二十年間も現世に留まっている理由を解決し、安らかに眠ってもらう。それが唯一の方法だ」


 真澄が陽菜乃の手を握る。


「彼女の霊能力なら、佳代さんの魂を救うことができるはずだ。問題は……陽菜乃自身が、佳代さんの苦しみを理解し、受け入れられるかどうかだ」


 その時、陽菜乃の体が再び震え始めた。今度はより激しく、まるでなにかと戦っているようだった。


「頑張れ、陽菜乃……」


 泰河が陽菜乃の手を握りしめる。


「負けるな……おまえはおまえだ……」

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