第5話 崩壊
世界の終わりは、意外なほど、静かだった。
あの路地裏での一件の翌日、教室の空気は、凍てついていた。私が自分の席に着くと、それまで教室を満たしていたざわめきが、一瞬、ぴたりと止んだ。好奇と、若干の怯えを含んだ視線が、私に突き刺さる。
佐伯海斗くんは、もう、私を見なかった。私が彼の視界に入ると、あからさまに顔を背け、隣の席の男子と、不自然なほど大きな声で、どうでもいい話を始めた。その拒絶の仕方は、あまりにも雄弁で、クラスの誰もが、私たちの間に、修復不可能な何かが起きたことを、瞬時に理解した。
「佐伯と倉本、別れたらしいよ」「なんか、倉本さんが一方的に振ったとか…」「いや、佐伯が倉本さんのことめちゃくちゃ怖がってたって話だぜ」。ひそひそと交わされる噂話が、私を「謎めいた、少し怖い存在」として、ゆっくりと孤立させていく。でもそれは、不思議なほどどうでもいいことだった。
数日が過ぎ、文化祭も終わった、九月の終わりの放課後。
私は日直の仕事で、一人、教室に残っていた。夕暮れの光が、埃っぽい教室を斜めに差し込んでいる。私はぼんやりと、教室の後ろに置かれた水槽を眺めていた。クラスで飼育している、五匹の金魚。その世話は、主に美香と沙耶が中心になってやっていた。「この子、一番大きいからキンちゃんね!」などと、名前までつけて。
ひらひらと優雅に尾を揺らして泳ぐ、オレンジ色の生き物。ガラス一枚を隔てた、安全な世界。守られ、愛でられ、ただ美しくありさえすればいい、完璧な「生」。
その無垢な存在が、今の私には、たまらなく苛立たしかった。
「由紀、まだいたの? 大丈夫?」
教室のドアが、静かに開いた。心配そうな顔をした美香が、立っていた。私のことを、まだ諦めきれずに、様子を見に来たのだろう。
「由紀、お願いだから、話して。何があったの? 佐伯くんとのこと、それに、最近の由紀、本当におかしいよ。私、心配で…」
私は、美香の言葉を無視した。そして彼女の目の前で、ゆっくりと、水槽の横に置いてあった、魚をすくうための小さな網を手に取った。
「え……?」
美香が、息を呑む。
私は、躊躇なく網を水槽の中に入れ、逃げ惑う金魚たちを、一匹、また一匹と、巧みにすくい上げていく。
「由紀、何やってるの!? やめて! キンちゃんたちが怖がってる!」
美香の、悲鳴のような制止の声。
私は、その声をまるで心地よいBGMのように聞きながら、五匹すべての金魚をすくい上げると、床に思いきりぶちまけた。
ビチャビチャッ、と水が跳ねる音がして、五つのオレンジ色の命が、床の上で散り散りになって跳ねる。必死に口をぱくぱくとさせて、空気を求めようとしている。哀れで、滑稽な、地獄のような光景。
「いやっ! やめて! お願いだから!」
美香が、泣きながら私の腕に飛びついてきた。その細い指が、私の腕に食い込む。
「お願い、やめてよ、由紀!」
私は、その手を虫でも払うかのように冷たく、強く、思いきり振り払った。
「邪魔」
その一言と共に、美香を突き飛ばした。彼女はバランスを崩し、床にべしゃりと尻餅をつく。
私は、尻餅をついて動けない美香を、ゆっくりと見下ろした。私の口元に、歪んだ歓喜の笑みが浮かんだ。
「見ててよ、美香。これが、本当の私だよ」
そう言うと、私は、床で跳ねる金魚たちへと向き直った。
まずは一匹目。その小さな身体を、上履きのつま先で、そっと押さえつけて、ゆっくりと体重をかけていく。プチッと、熟れた実が潰れるような音と感触。
二匹目。三匹目。私は、まるでダンスでも踊るようにリズミカルに、しかし執拗に、金魚たちを踏み潰していく。上履きの白いゴム底が、赤とオレンジの色、鱗、粘液で、まだらに汚れていく。グチャッ、グチャッ、という湿った音が、静かな教室に、おぞましく響き渡った。
「や…やめて……やめてぇぇぇ!」
美香が、床に這いつくばったまま、絶叫している。
最後に残ったのは、美香が「キンちゃん」と呼んで、一番かわいがっていた、ひときわ尾びれの美しい金魚だった。
私は、その金魚の頭上に、上履きの踵を、そっと置いた。そして、美香の、絶望に染まった顔を、まっすぐに見つめた。
彼女の絶望が、私の快感を、最高潮にまで高めてくれる、最高の材料だった。
私は、恍惚の表情で、踵に全体重を乗せる。
グシャリという、一際大きな音。
私はその金魚の残骸を、何度も、何度も、心から興奮を味わうように床に擦り付けた。上履きのギザギザした靴底が、骨も、肉も、内臓も、すべてを混ぜ合わせ、ただの赤黒い汚れた染み、つまり「ミンチ」へと姿を変えていくまで、私はその行為を止めなかった。
「あ……ああ……うわあああああ!」
美香は、目の前で繰り広げられた狂気の光景に、もはや声も出せず、ただ嗚咽を漏らした。恐怖と、嫌悪と、絶望。親友だと思っていた人間が、全くの化け物であったという、耐え難い真実。
「あなた、誰なの……。あんたなんか、私の知ってる由紀じゃない! 化け物! もう顔も見たくない!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、彼女は、後ずさりして、もつれる足で、教室から逃げ出していった。
その背中を、私は最高の芝居を観終えた観客のような、深い満足感で見送っていた。
美香が離れていったことを、私は気にも留めなかった。最後の足枷が外れたことで、完全な自由を感じる。
もう、誰かのために「良い子」を演じる必要はない。衝動を隠す必要もない。私のありのままの姿。それこそがこの衝動なの。
私の行動は、より堂々としたものになった。街を歩きながら、美しいもの、完璧なもの、生きているものを見つけては、それを破壊することに、純粋な喜びを見出すようになった。それは呼吸をするのと同じくらい、自然な営みだった。
十月初頭。秋の長雨が続く、肌寒い日の夕暮れ。
私は一人、公園にいた。雨に濡れた地面が、街灯の光を鈍く反射している。服装は、黒を基調としたシックなワンピース。足元は、私の忠実な
その時、植え込みの暗がりで、何かが、動いた。
それは、一匹の子ネズミだった。
雨に濡れて、弱っているのだろう。小さな身体を、懸命に震わせている。温かい血の通った、私たちと同じ哺乳類。
その、か弱い命を見た瞬間、私の口元に歓喜の笑みが浮かんだ。今日の最後の晩餐に、これ以上ふさわしい獲物はない。
私は、その怯える黒い瞳を、心ゆくまで楽しんだ。
まず、その小さな頭部に、エナメルのパンプスの鋭いヒールを突き立てた。一撃で絶命させては、つまらない。意識を奪い、抵抗できなくするだけでいい。
ピクッと一度だけ痙攣して、ネズミは動かなくなった。
私は、その動かなくなった身体を、パンプスの尖ったつま先で、弄ぶようにゆっくりと転がした。柔らかい毛皮の感触が心地よい。
さあ、ここからが本番だ。
私は、恍惚とした表情で、ネズミの胴体の真上に、靴底を置いた。そして体重をかけ、アスファルトの上で、何度も、何度も、ときには前後に、ときには円を描くように、執拗に磨り潰し始めた。
パキパキという、小さな骨が砕ける音。
グチュグチュという、柔らかい肉が潰れる湿った感触。
それは、私の足の裏から神経を駆け上り、脳の髄を至高のエクスタシーで満たしていく。嫉妬も、劣等感も、罪悪感も、すべてがこの破壊行為によって昇華され、純粋な快楽へと変わる。
私は笑っていた。歓喜に打ち震え、恍惚の表情で、ただひたすらに、足元の命をミンチへと変えていく。毛皮がアスファルトに張り付き、肉が繊維を失い、それがかつて生き物であったとは分からないほどの、ただの汚れた肉塊になるまで、私はその行為を止めなかった。
やがて、すべてが終わった時。
私は、汚れたパンプスを満足げに見下ろし、深く恍惚としたため息をついた。
その表情には、もはや何の葛藤も、何の翳りもなかった。
あるのは絶対的な静寂と、世界の頂点に立ったかのような、冷たい、冷たい、全能感だけ。
私は、もはや「疼き」に悩まされることもない。私自身が、その快楽そのものになったのだから。
空っぽになった世界で、私はただ一人、自分の足の下にひれ伏すものを見下ろす。
それが、私が女王となった唯一無二の王国だった。
アンダー・マイ・シューズ 写乱 @syaran_sukiyanen
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