第4話 発覚

 あれほど焦がれるように長く感じられた夏休みは、終わってしまえば、まるで泡沫の夢のようだった。あの夏祭りの夜、夜空を焦がした花火の光と音の奔流。その光が強ければ強いほど、私の足元に落ちる影もまた、濃くなることを知った。幸福の絶頂で味わった、あの深い孤独感。それ以来、何かが決定的に変わってしまった気がする。


 九月。夏休み明けの教室は、日焼けした肌と、少しだけ大人びたクラスメイトたちの声、そして文化祭へ向けての熱気で、騒がしく満たされていた。私の高校二年生の夏は、佐伯海斗くんの隣で、過ぎていった。

 彼の恋人、という立場は、幸福であると同時に、薄氷の上を歩くような、絶え間ない緊張を私に強いた。


「由紀、おはよう」

 朝、教室で会うと、彼は当たり前のようにそう言って微笑む。

「おはよう、佐伯くん」

 私も、練習したみたいに、穏やかな笑顔を返す。

「夏休みの宿題、終わった?」

「うん、なんとかね」


 たったそれだけの、ありふれた会話。でも、その短いやりとりの裏で、私は絶えず自己採点をしていた。今の笑顔、不自然じゃなかったかな。声のトーンは、おしとやかに聞こえただろうか。彼の目に、私はちゃんと「理想の彼女」として映っているだろうか。彼の何気ない一言、優しい仕草の一つ一つに、過剰に意味を読み取ろうとしては、勝手に疲弊していた。

 美香も「夏休み、ラブラブだったー? 見て、この由紀の幸せそうな顔!」などと、しょっちゅう私をからかった。私は、そのたびに、ただ曖昧に微笑むだけだった。その笑顔の仮面の下で、心が少しずつ、軋んでいくのが分かった。


 クラスの出し物は、美香の強い希望が通って、お化け屋敷に決まった。

 放課後の教室は、段ボールや黒いビニールシート、おどろおどろしい装飾品で、まるで秘密基地のようになっていく。クラスメイトたちが、楽しそうに笑い合いながら作業を進める中で、私は、自分がその輪に溶け込めていないことを、はっきりと自覚していた。彼らの屈託のない笑い声が、耳障りな環境音のように聞こえる。

 海斗は、持ち前の明るさとリーダーシップで、自然と男子たちの中心になって作業を進めていた。


「なあ、ここの壁、どうやって固定する?」

「倉本さん、手先が器用だから、こういう細かい飾り付け、得意じゃないか?」

 彼は、当たり前のように、私にも話を振ってくれる。その優しさが、今は、少しだけ、重かった。

「由紀、お化けの絵、描いてよ! 由紀の描く絵、味があって好きだなー」

 美香も、私を輪の中に引き入れようとしてくれる。その善意が、私を追い詰める。


 私は、黙々と、与えられた役割をこなした。カッターで段ボールを切り、赤い絵の具で、血糊のような模様を描く。そういう、一人で没頭できる作業は、嫌いではなかった。カッターの冷たい刃先が、段ボールをザクザクと切り裂いていく。その感触が、私のささくれ立った心を、ほんの少しだけ、慰めてくれた。


「由紀、すごいじゃん! めっちゃ怖い!」

 私が作ったお札を見て、海斗が感心したように言った。その言葉に、胸がきゅっと高鳴る。嬉しい。でも、その直後に、またあの冷たい感情が忍び寄ってくる。

 ――違う、すごいのは私じゃない。あなたが見ているのは、私が演じている虚像だ。

 美香は、持ち前のコミュニケーション能力で、みんなをまとめ、笑わせている。その姿を、私は羨望と嫉妬の入り混じった目で見つめていた。私には、ああはなれない。この絶望感が、私の内側で、儀式への渇望を、じりじりと育てていた。帰り道に、道端の甲虫をローファーで踏み潰してみても、もはや、あの深い満足感は得られなくなっていた。もっと、強い刺激が欲しい。もっと、完璧な破壊と解放が。


 文化祭を数日後に控えた、九月の終わりの放課後だった。

 その日の準備は、大掛かりなセットの組み立てで、クラスの雰囲気は最高潮に達していた。作業を終え、心地よい疲労感と共に、私と美香、そして海斗の三人で、夕暮れの道を歩いていた。夕日が長く影を落とすアスファルト。文化祭前の高揚感と、一日の終わりの疲労感が入り混じった、感傷的な空気。


「いやー、疲れたけど、なんか、めっちゃ青春って感じじゃなかった?」と美香が笑う。

「今年の文化祭、絶対成功させような」と海斗が応える。

 その完璧な「青春」の光景の中で、私だけが、一枚の薄い膜を隔てた場所にいるような気がした。

 その時だった。

 美香が、何の気なしに、そして、心からの善意で、こう言ったのだ。

「本当に、海斗くんが彼氏で由紀は幸せ者だよ!こんなに優しくて誠実な人、いないって!」


 その言葉が、私の心の、最後の防衛線を、粉々に破壊した。

 世界から、音が消えた。美香と海斗の顔が、スローモーションに見える。言葉の意味が、弾丸のように、私の心の最も柔らかい部分を撃ち抜いた。

 ――誠実じゃないのは、私のほうだ。

 嘘つき。偽物。偽善者。私は、この二人を、ずっと騙している。

 偽りの自分を肯定され、祝福されること。それは、どんな罵倒よりも、深く、鋭く、私を傷つけた。罪悪感が、堰を切って、私の中に溢れ出す。そして、それは、何も知らない友人たちへの、歪んだ、黒い怒りのような感情へと変わっていった。

 頭の中で、これまで経験したことのないほどの、巨大な疼きが、爆発した。


「……ごめん」

 私の声は、自分でも驚くほど平坦で、感情が抜け落ちていた。

「忘れ物、したから。先に、戻ってて」

「え、由紀? 大丈夫? 顔色、悪いよ?」

 心配そうに覗き込んでくる美香の顔も、海斗の訝しげな表情も、もう、私にはよく見えなかった。

「大丈夫だから」

 私は、二人に背を向けると、ほとんど駆け出すようにして、その場を離れた。自分の足で歩いているという感覚すらない。何かに引かれるように、衝動の源へ向かっていく。


 衝動に突き動かされるまま、私は、駅前の繁華街から一本入った、薄暗いゴミ集積所の裏手へと吸い込まれていった。生ゴミの、酸っぱい匂い。室外機の、低いうなり。壁の、剥がれかけた落書き。世界の淀みが凝縮されたような、私の心象風景にふさわしい舞台。

 そこで、私は、それを見つけた。

 コンクリートの壁に、張り付くようにして、一匹の大きなカマキリがいた。夏の終わりを、秋の始まりをその身に刻んだ、緑色の甲冑をまとった、孤高の戦士。私に気づくと、それは、見せつけるように、ゆっくりと、三角形の頭をこちらに向け、前足の、鋭い鎌を、高く、振り上げた。

 その、威嚇するような、孤高の姿。それが、まるで、私の隠している、醜い刃のようだ、と思った。

 そして、許せない、と思った。

 私以外のものが、そんなふうに、孤高を気取っていることが。

 私は、その日履いていた学校指定のローファーで、まず壁を強く蹴った。驚いたカマキリが壁から地面に落ちる。

 これはもはや、静かな儀式ではない。私の、内に溜まった、すべての醜い感情を叩きつける処刑だ。

 最初に、その振り上げられた鎌の一つを、ローファーのつま先で、狙い定めて踏み砕いた。パキッと乾いた音がして、抵抗の手段が一つ、失われる。

 次に、もう一方の鎌。同じように、踏み砕く。

 そして、いよいよ本体だ。私は、鎌を失ってもなお、必死に後ずさろうとするカマキリの頭部を、踵で思いきり踏みつけた。

 グチャッという、生々しい音。

 でも、それだけでは足りなかった。憎悪が止まらない。私は踵を上げたかと思うと、今度はつま先を、何度も何度も、その緑色の身体に叩きつけた。頭が潰れ、緑色の体液が、私の白い靴下に、点々と飛び散った。

 醜い。汚い。それでいい。もっと、もっと、めちゃくちゃにしてしまいたい。

 私の頭の中では、美香と海斗の楽しそうな笑い声が、母親の期待の言葉が、破壊音と共に再生されている。それら全てを、足の下で、無に帰していく。


 私は、ほとんど息もせずに、夢中で、カマキリの残骸を踏みつけ続けた。恍惚と憎悪の入り混じった、自分でも見たことのない表情を浮かべていることにも、気づかずに。


 その時だった。

「……由紀?」

 背後から、信じられない、という響きを帯びた声がした。

 私の動きが、ぴたりと、止まった。

 ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、振り返る。

 そこに、彼が立っていた。

 佐伯、海斗くんが。

 彼の顔は、蒼白だった。彼が手にしていたらしい教科書が、音を立てて地面に落ちた。彼は、信じられないものを見る目で、私の足元と、私の顔を、交互に見ている。その瞳に映っているのは、恐怖と、嫌悪と、そして、深い、深い、絶望の色だった。


「……何、してるんだ……?」

 彼が、絞り出すように、そう言った。

 私は、何も答えなかった。答える言葉を、持たなかった。

 ごめんなさい?

 違う。

 これは、事故だったの?

 違う。

 私の顔から、恍惚とした表情が抜け落ち、能面のような無表情へと変わる。そして、海斗を認識した瞬間、その目に、氷のような、冷たい光が宿った。

 見てしまったのね。

 私の、本当の姿は、これだよ。

 あなたが、好きだと言ってくれた、あの倉本由紀は、もう、どこにもいないんだよ。

 私たちの間に、永遠のような、沈黙が流れた。

 やがて彼は、小さく、かぶりを振った。

「……誰だ、お前」

 彼は、そう呟くと、一歩、また一歩と、後ずさりした。その瞳はもう、私を見てはいなかった。まるで、理解不能な、おぞましい化け物を見るように。

 そして、彼は、踵を返すと、逃げるように、路地裏を走り去っていった。


 一人、路地裏に残された。

 足元には、無残な、カマキリだったものの、緑色の染み。

 彼の、最後の、あの絶望に満ちた瞳が、脳裏に焼き付いて、離れない。

 終わった。

 すべて終わったんだ。

 後悔や悲しみは、不思議なほど、湧き上がってこなかった。ただ、ついに、この重くて息苦しい秘密の仮面を、脱ぎ捨てることができたという奇妙な虚脱感と、空っぽの静けさだけが、私の心を支配していた。

 ――これで、もう、演じなくていい。

 裏切ったのは、本当の私を受け入れられなかった、あなたのほうだ。

 私は、汚れたローファーのつま先を、一度だけ、アスファルトにこすりつけた。

 そして、空っぽになった心で、ゆっくりと、路地裏を後にする。

 沈んでいく夕陽が、私の白いセーラー服を、返り血のように、深く赤く、染めていた。

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