第3話 闇

 佐伯海斗くんと付き合うことになった、というのは、私の高校生活における、まさに天変地異のような出来事だった。

 告白の翌日、教室で顔を合わせた時の、あのぎこちなさ。おはよう、と声をかけるだけで、心臓が口から飛び出しそうだった。彼は、少し照れたように「おう」と短く返事をして、すぐに友達の輪の中へ消えていった。その背中を見送りながら、私はこれが夢ではないことを、噛み締めていた。


「由紀ー! 聞いたよ、昨日!」

 私の席に来るなり、美香が興奮した様子で小声で言った。

「もう、自分のことみたいに嬉しいんだけど! よかったね、本当に!」

「……うん」

「で、どうなの? 佐伯くん、なんて? 詳しく!」

「もう、美香は……」

 根掘り葉掘り聞こうとする美香をいなしながらも、私の口元は自然と綻んでいた。沙耶も「由紀ちゃん、おめでとう。佐伯くんなら、優しそうだもんね」と、ふんわり微笑んでくれた。友人からの祝福。それは、私がずっと夢見ていた「普通の女の子」の幸福そのものだった。


 その週末、私たちは初めてのデートをした。

 どこへ行くか、何を着ていくか、私は前の日の夜、ベッドの上で日付が変わるまで悩んだ。クローゼットの中のおとなしめのワンピースを、何度も身体にあててみる。彼が好きだと言ってくれた、あの作家の別の本を、小さなバッグに忍ばせて。

 水族館へ行った。薄暗い、青い光に満たされた空間。私たちは言葉少なに、巨大な水槽を眺めていた。人混みの中、彼がそっと私の手を握った。大きくて、少しだけ汗ばんだ、男の子の手。その温かさが、私の冷えた指先にじわりと伝わってくる。

 嬉しい、はずなのに。その手の温かさを感じながら、私の頭の片隅で冷たい声が囁いた。――この手で、私は。違う。考えちゃだめだ。私は、ぎゅっと彼の手を握り返した。


 六月から七月へ。季節は梅雨の湿っぽさを抜け、本格的な夏の様相を呈し始めていた。蝉の声がアスファルトの熱気と共に、街中に満ちている。

 夏休みに入ると、私たちはまず宿題を片付けるためにファミレスに集まった。


「あー、もう無理! 現代文のワーク、意味わかんない!」

 美香がドリンクバーから戻ってくるなり、椅子に崩れ落ちた。

「ちゃんと問題文、読んだの?」

「読んだけど、筆者の気持ちになれないんだもん!」

「ふふ、美香らしいね」


 私は、黙々とこなしていた数学の問題集から顔を上げた。隣では、沙耶が「うーん」と唸りながら、一本の英単語をノートに十回も書いている。私は二人に、分からない問題を教えてあげた。


「由紀、ほんとすごい! なんでそんなに分かるの?」

「別に、すごくないよ。教科書に書いてある通りなだけ」

「それができないんだってー」

 美香からの称賛。沙耶からの尊敬の眼差し。嬉しい。でもその度に心の奥底で、冷めた自分が「この程度のことで褒められても」と呟く。本当の私を知らないから、そんなことが言えるんだ、と。


 夏休みの中盤、私たちは夏祭りのための浴衣に合わせる小物を買いに、ショッピングモールへ出かけた。

「由紀は、絶対こっちの赤い金魚の簪が似合うって!」

「え、でも、ちょっと派手じゃないかな」

「そんなことないよ! 黒髪に映えるって!」

 美香が私の髪に派手な飾りを当てて、うんうんと頷いている。

「佐伯くんも、絶対こっちがいいって言うよ!」


 彼の名前を出されると、私は何も言えなくなる。結局、私は美香の勢いに負けて、小さな赤い花の飾りがついた、控えめな櫛を選んだ。彼に「どっちがいいかな?」と聞く勇気は、まだなかった。

 その日の午後、映画を観ることになった。三人で並んで座る。暗闇の中、私の隣りには海斗がいた。彼も美香に誘われて、後から合流したのだ。

 映画はありがちなラブストーリーだった。スクリーンの中で、主人公たちがすれ違ったり、喧嘩したり、そして最後には結ばれたりする。美香は、隣りで鼻をすすっていた。

 私はただ、ぼんやりと光るスクリーンを見つめていた。そして不意に、彼が私の隣りでどんな顔をしているのかが気になった。そっと横を見ると、彼は物語に引き込まれたように、真剣な表情でスクリーンを見つめていた。

 その時美香が、海斗の肩にこてんと頭を乗せて「感動するねー」と囁いた。海斗は少し驚いたように、でも嫌がるでもなく、苦笑している。

 兄妹みたいだ。本当に仲がいいんだな。

 そう思った瞬間。私の心に黒いインクが一滴、ぽつりと落ちた。

 私には、あんなふうに無邪気に、彼に甘えることなんてできない。

 ――本当は海斗も、私みたいな暗い子より、美香みたいな明るい子の方が好きなのかもしれない。

 一度芽生えた疑念は、夏の雑草のように、あっという間に心の中に根を張っていく。嫉妬と呼ぶには、それはあまりにもみじめで、自己嫌悪に満ちた感情だった。


 その日の夜。

 海斗に家の近くまで送ってもらった後、私は一人、部屋のベッドに倒れ込んだ。楽しかったはずの一日の思い出が、灰色のフィルターを通して、私の心を重くしていく。疼きが始まっていた。

 だめだ。このままじゃ眠れない。明日また、海斗の前で笑顔でなんかいられない。

 私は、そっと家を抜け出した。夜の生暖かい空気が肌にまとわりつく。向かう先は決まっている。

 人通りのない、夜の公園。街灯の光がぼんやりと地面を照らしている。光に誘われて、たくさんの虫が集まっていた。昼間、あれほどやかましく鳴いていたアブラゼミが、力尽きたように地面に落ちている。そして、大きな羽の模様が醜い蛾が、街灯の周りを狂ったように飛び回っていた。


 今日の獲物は、この二匹。

 嫉妬。劣等感。自己嫌悪。昼間に感じた、醜い感情のすべて。それをこの足の下で、粉砕する。

 私は、その日履いていた、少しだけヒールのあるエナメルのパンプスで、まずアスファルトの上に落ちているセミに近づいた。まだ足が微かに動いている。

 私はそのセミの腹に、パンプスの鋭いヒールを、狙いを定めて突き立てた。

 ブチッという鈍い音。

 セミの硬い腹を、ヒールが的確に貫いた。でもそれだけでは足りない。昼間の、美香と海斗の楽しそうな笑い声が、脳裏に蘇る。あの光景を、もっとめちゃくちゃに破壊したい。

 私はヒールを抜くと、今度はパンプスの平らなつま先で、セミの身体をゆっくりと押し潰していく。ミシミシと甲殻が砕け、内臓が溢れ出す。その感触を足の裏で味わいながら、最後に靴底全体で、アスファルトに塗りつけるように、何度も、何度も、磨り潰した。靴底のギザギザした凹凸が、セミの残骸を、黒い染みへと変えていく。


 一つ終わった。でもまだ足りない。

 私は顔を上げた。街灯にあの大きな蛾が、ぶつかっては落ち、また飛び立つ、というのを繰り返している。

 私は助走をつけて、蛾が地面に落ちた瞬間を狙い、パンプスでそれを叩き落とした。地面でもがく、大きな粉っぽい翅。


 醜い。私みたいだ。


 私は、その翅のちょうど真ん中を、わざとゆっくりと踏みつけた。薄い翅が、パリッと音を立てて破れる。鱗粉が、黒いエナメルのパンプスに汚い模様を描いた。でも不思議と嫌な気はしなかった。むしろ私の醜さを肯定してくれる、戦利品の勲章のようにさえ思えた。

 私はその蛾の身体を、ヒールで何度も、何度も、突き刺した。憎い何かを罰するかのように、暴力的に、残酷に。


 ――ああ。

 深い、深い、解放感。

 息が上がっていた。肩で大きく息をする。醜い感情が、すべて足の下の汚物へと変わっていく。これでいい。これでまた明日も、私は彼の前で「おとなしくて、少しミステリアスな可愛い彼女」を完璧に演じられるのだ。


 八月。夏休みも、終わりに近づいていた。

 その日は近所の神社で、夏祭りが開かれる日だった。海斗との二人きりのデート。

 浴衣姿の私を見て「すごく似合ってる」と、彼は少し照れたように笑った。

 祭りの喧騒の中、私たちははぐれないように、自然と手を繋いだ。彼の温かい手。射的で、彼が私の欲しがっていた小さなガラスの猫を、見事に撃ち落としてくれた。その一つ一つが、宝物のようにきらきらと輝いていた。


 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。この幸福な普通の時間が、永遠に続けばいいのに。

 りんご飴を舐めながら、私は切にそう願っていた。

 でも分かっていた。この幸福感そのものが、私にとっては最大のプレッシャーなのだ。ふとした瞬間に、祭りの喧騒が、意味のない「ノイズ」の塊に聞こえる。足元の暗がりに、蠢く虫の影を探してしまっている自分に気付き、愕然とする。


 私たちは人混みを避けて、神社の裏手の、少し開けた場所へ出た。そこからは、これから始まる花火がよく見えるらしい。

 彼が「ここなら、よく見えるって、友達に聞いたんだ」とそう言った、その時だった。

 ヒュルルルル、という尻上がりの音。

 そして、ドン! という腹の底に響くような大きな音と共に、巨大な光の花が夜空に咲いた。

「わあ……」

 赤、青、緑、金。次々と、色とりどりの光が夜空を焦がしていく。

 私は隣に立つ彼の横顔を、そっと盗み見た。花火の光に照らされた彼の顔は、真剣でとても美しかった。

 この人と恋をしている。その事実が甘い痛みとなって、私の胸を締め付ける。


 ドン! ドン!

 花火の光と音が、奔流となって私たちに降り注ぐ。

 その圧倒的な破壊と再生のスペクタクルの中で、私は自分の心の闇の深さを、改めて自覚していた。

 幸福の光が強ければ強いほど。私の足元に広がる影もまた、どこまでも濃く、深くなっていく。

 この夏の終わりが、何かの終わりの始まりであることを、私はこの時、既に予感していたのかもしれなかった。

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