第4話

――ナマズが哭いた、湖の底の夜――


夏の陽が、琵琶湖の湖面を金色に照らしていた。だが、その穏やかさとは裏腹に、湖の底にはいまだ解かれぬ因習の鎖が眠っている。 信州、金沢、福井――そしていま、若様一行は「近江の地」滋賀へと足を踏み入れていた。


「ぬおっ……空気が、重いですぞ若様」


じぃが鼻をひくつかせる。湿気のせいだけではない。このあたり一帯、微かに血のような、鉄のような匂いが混じっていた。


「……この地、昔は“人柱”の風習があったって聞くよ」 ツララが小さく呟いた。声に影が差す。彼女自身が雪深い因習の村出身であり、かつては“祭神”と呼ばれ、封じられていた存在だ。


「湖の底に沈んだ社もあると聞く。夜には不気味な光が浮かび、声がするという噂も……」


「じぃ、ワクワクしてるやん」 くのいちこの茶化しに、じぃは顔をしかめた。


「冗談ではない。拙者は常に冷静である」


「ちょっとこわいよ〜……」と、川キチが若様の袖にぴとっとくっついた。


「大丈夫だ、川キチ。お前には、この若がついている」


若様は穏やかに微笑むが、視線の奥に鋭い気配が宿っていた。琵琶湖の湖岸には、不自然に朽ちた祠や、打ち捨てられた石像が点在する。 何かが、眠っている。何かが、呼んでいる。


◇ 湖魚料理「水門屋」にて


旅の途中、一行は湖岸の古い料理屋に腰を下ろした。名前は《水門屋(みなとや)》──数百年続くとされる老舗だ。 しかし、店はどこか寂れていた。


「すみませ〜ん、名物の鮒寿司と、ナマズの蒲焼きありますか〜?」


くのいちこが手を挙げると、奥から重々しい足音と共に現れたのは――


「久しいのう……若様」


丸々と肥えた身体に、ぐっと引き締まった眼光。片手に杖を突き、もう片方の手で、じっくり焼かれたナマズを捌いていた。


「……ナマズの助!」


思わず立ち上がるじぃ。かつての大戦、近畿方面の宿敵の一人。湖底の陣を指揮し、若様らと死闘を繰り広げた妖怪武人である。


「生きとったんか?」とミミズ腸のような驚きを浮かべる川キチ。


「お主らがワシを沈めたのは事実。だが、湖はワシを拒まなかった」 「……それだけじゃ。いまは店主じゃ。湖魚を捌き、人の話を聞くのが仕事よ」


その言葉通り、ナマズの助は淡々と焼き物を出し、汁を注ぎ、配膳をした。


「ほれ、鮒寿司。ちゃんと発酵させてある。くせが強いが、命をつなぐ味じゃ」


「おいし〜い!でもくっさーい!」と、くのいちこ。


「じぃは酒かすが合うかの。特製の“湖底漬け”もあるで」 「うぬぬ……敵に味で転ばされるとは……くっ」


「川キチには、琵琶湖のモロコ甘露煮じゃ。骨まで食える」 「ありがとう……やさしいね……」


「ツララ嬢には、氷魚(ひうお)の揚げだしと、蓼酢(たでず)で和えた鮎の刺身じゃ。冷ややかなる口に合う」


「……こんなに冷たくて、きれいな味……湖の底から目を閉じてた子が、やっと空を見たみたい」


戦った男の手から供される命。 その晩餐は、静かで、豊かで、どこか哀しかった。


◇ 湖底の因習


食後、ナマズの助はぽつりと語り始めた。


「湖の底には、社が沈んでおる。今も。 “乙女の祠”――村娘を“嫁”として湖に沈めておったんじゃ。 豊穣、安寧、そして“主”の鎮魂……。ほんまにバカげた話じゃがな」


ツララがピクリと反応した。


「その娘の霊……まだ湖の底で、叫んでるの?」


「いや……今はもう、怒ってもおらん。 ただ、“忘れられたこと”に、泣いとるだけじゃ」


若様は立ち上がった。 「案内してくれ。ナマズの助。……この国に、祈りの叫びを置いていくわけにはいかん」


◇ 夜の湖底社:祠との対話


ナマズの助に案内され、一行は小舟で湖へ。風も波もなく、夜は静寂そのものだった。


ツララの指先が冷たく震えた。「……聞こえる。湖の下、女の子の声……」


湖底には、苔むした石段と、ぽつりと立つ小さな社が現れる。


「汝ら、なぜ、ここへ……」


水音とともに現れたのは、白衣を纏った少女の幻影だった。


「わたしは、“嫁”ではない。“生贄”でもない…… ただ、泣いて、笑って、生きたかっただけなのに……」


ツララが一歩、幻影へと踏み出す。「あなたの痛み、わたし、知ってる」


二人の間に霊気が流れ、ツララの額に青白い光が灯る――彼女の霊力が、共鳴を始めたのだ。


若様は抜刀するが、斬らない。「霊とはいえ、怨みとはいえ……この国の歴史だ」


ナマズの助が、静かに手を合わせた。「許せ。忘れてしまった儂らの罪を……」


幻影は、やがて静かに光へと還っていった。


◇ 夜明けの別れと旅立ち


朝。湖畔に立つ若様に、ナマズの助が小さな巻物を手渡す。


「京都に行くなら、この言葉を心に刻め。“祈りを、忘れるな”。 平和になればなるほど、昔の痛みは忘れ去られる。……それが、国の病じゃ」


若様は深く頷いた。「ありがとう、ナマズの助。……また会おう」


「次は料理人として勝負しようや。あんたらの胃袋、つかんだる」


一行は再び旅立つ。 背後で、琵琶湖の水面がきらりと光った。


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