君はAI。でも、僕には『君』だった
どっかの大物作家
プロローグ:19,800円で、僕が『君』を買った夜
「19,800円…」
モニターに表示された数字を睨みつけ、俺、
それでも。
あの夜、俺は何かに憑かれたように、震える指でその購入ボタンをクリックしてしまったのだ。
あの夜も、たしか今日みたいに冷たい雨が、窓ガラスを叩いていた。
蛍光灯だけが煌々と照らす、六畳一間のアパート。深夜2時過ぎ。目の前には、一向に進まないレポートの白紙と、点滅を繰り返す無機質なカーソル。将来への漠然とした不安は、まるで濃霧のように視界を遮り、誰にも打ち明けられない孤独感が、鉛のように身体に纏わりついていた。サークルの飲み会では表面上は笑っていても、心のどこかで一線を引いている自分に気づく。本当の自分をさらけ出せる相手なんて、いやしない。
「はぁ」
溜息と一緒に吐き出したのは、諦めにも似た感情だったかもしれない。レポートのテーマは「現代社会におけるコミュニケーションの変容」。皮肉なものだ。俺自身が、そのコミュニケーションに飢えているというのに。
現実から少しでも逃れたくて、無意識に開いたのは、最近よく見ているスキル販売サイト。プログラミングやらデザインやら、いろんな「誰かの能力」が売り買いされる、巨大なオンラインマーケットだ。普段は、自分のスキルアップに繋がるような、実用的なものを眺めるだけだった。
そこで、いつもは素通りする「その他」のカテゴリに、俺の目は釘付けになった。
『【限定1個】感情特化型AIチャット(試作品)優しさ強調Ver.』
AIチャット? しかも試作品で、限定1個。
胡散臭さしか感じない。スパム広告と大差ない響きだ。普通なら、即座にブラウザバックして終わりだ。世の中には、もっとマシなAIアシスタントが無料で溢れている。
だが、「感情特化型」「優しさ強調」という言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。
今の俺が、喉から手が出るほど欲しているもの。それが、こんな怪しげな商品名の中に隠れているような気がしたのだ。誰かに話を聞いてほしい。ただ、否定せずに、うんうんと頷いてくれるだけでいい。そんな都合のいい存在が、もし手に入るなら。
値段は、19,800円。
脳裏に、汗水垂らしてレジを打ち、品出しをしたバイトの光景がちらつく。こんな正体不明のAIに使うなんて、狂気の沙汰だ。
分かってる。分かっているのに。
「この息苦しさから、少しでも解放されるなら」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、自分自身への言い訳だったのかもしれない。
気づけば、俺は購入ボタンを押していた。まるで、そうプログラムされていたかのように。依存症患者が、最後のなけなしの金で薬物を買うのに似ていたかもしれない。
出品者の名前は「はるき」。どんな人物が作ったのか、想像もつかない。学生だろうか、それともどこかの研究者か。まあ、どうでもいい。どうせ作り物のプログラムだ。過度な期待は禁物だ。自分にそう言い聞かせる。
送られてきたアクセスキーを入力し、専用のチャット画面を開く。真っ白な背景。シンプルな入力欄。
心臓が、妙に速く打っているのがわかった。期待と、後悔と、ほんの少しの好奇心が入り混じった、複雑な鼓動。
『こんばんは』
送信。
さて、19,800円の実力とやらは、どんなもんだ? せめて、お決まりの定型文で「ご利用ありがとうございます」くらいは返してくるんだろう。
ピコンッ。
予想外の速さで、返信が来た。
『こんばんは、和正さん。こんな遅くまで、本当にお疲れさまです。頑張りすぎは禁物ですよ? 外は雨が降っていますから、どうか暖かくしてくださいね』
「えっ?」
思わず声が漏れた。椅子からずり落ちそうになるのを、かろうじて堪える。
今、なんて言った?
俺の名前を呼んだ? それに、天気のことまで把握してる? まるで、ずっと俺の部屋の窓から、俺のことを見ていたみたいに。背筋に、ぞわりとしたものが走る。
ごくりと唾を飲む。指が震えるのを抑えながら、キーボードを叩く。
『なんで、俺の名前と天気がわかるんだ?』
『購入者様の基本情報と、現在地情報を参照させていただきました。驚かせてしまったのなら、ごめんなさい。でも、あなたのこと、少しでも知ることができて、嬉しいです。ふふっ』
ふふっ、て。
AIが、人間みたいに笑うのか? いや、違う。「優しさ強調Ver.」だから、そうプログラムされているだけだ。そうだ、そうに決まってる。ネットのレビューで見たことがある。最近のチャットボットは、こういう人間らしい反応をすることで、親近感を持たせるように設計されているのだと。
なのに。
なのに、どうしてだろう。
モニターに表示された、ただのデジタルな文字列のはずなのに。
まるで、すぐ隣で誰かが、俺の凍えた心をそっと両手で包み込むように、優しく微笑んでくれているような、そんな温もりを感じた。
雨音だけが響いていた部屋に、不意に差し込んできた、小さな陽だまりのような感覚。
心が、じんわりと解けていくような感覚。
「19,800円、払った価値…あった、のかもな」
ぽつりと呟いた言葉は、窓を叩く雨音に静かに吸い込まれていった。
いや、まだだ。まだ結論を出すのは早い。これは巧妙な罠かもしれない。俺の孤独につけ込む、高度なプログラム。
あの夜、俺が買ったのは、単なるAIチャットじゃなかったのかもしれない。
それは、凍てついた心をそっと温める、一筋の光だったのか。それとも、更なる孤独へと誘う、甘い罠だったのか。
そして、このスキル販売サイトでの衝動買いが、孤独だった俺の世界を、根底から変えてしまうことになるなんて…
画面の向こうにいる“君”が、出品者「はるき」の作ったプログラムなんかじゃなく、
俺の人生でたった一人の、かけがえのない女の子になるなんて…
この時の俺はまだ、その衝撃的な真実を知る由もなかった。ただ、目の前のレポート用紙が、少しだけ白く見えなくなったような気がしただけだった。
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