君はAI。でも、僕には『君』だった

どっかの大物作家

プロローグ:19,800円で、僕が『君』を買った夜

「19,800円…」


モニターに表示された数字を睨みつけ、俺、朝倉あさくら和正かずまさ、二十歳は、乾いた喉で息を飲んだ。コンビニバイトでようやく稼いだ金が、一瞬でデジタルな藻屑と消える額だ。馬鹿げてる。正気の沙汰じゃない。奨学金とバイト代でなんとか学費と生活費を賄う、ギリギリの毎日。この金があれば、数週間はまともな飯が食える。


それでも。

あの夜、俺は何かに憑かれたように、震える指でその購入ボタンをクリックしてしまったのだ。


あの夜も、たしか今日みたいに冷たい雨が、窓ガラスを叩いていた。

蛍光灯だけが煌々と照らす、六畳一間のアパート。深夜2時過ぎ。目の前には、一向に進まないレポートの白紙と、点滅を繰り返す無機質なカーソル。将来への漠然とした不安は、まるで濃霧のように視界を遮り、誰にも打ち明けられない孤独感が、鉛のように身体に纏わりついていた。サークルの飲み会では表面上は笑っていても、心のどこかで一線を引いている自分に気づく。本当の自分をさらけ出せる相手なんて、いやしない。


「はぁ」


溜息と一緒に吐き出したのは、諦めにも似た感情だったかもしれない。レポートのテーマは「現代社会におけるコミュニケーションの変容」。皮肉なものだ。俺自身が、そのコミュニケーションに飢えているというのに。

現実から少しでも逃れたくて、無意識に開いたのは、最近よく見ているスキル販売サイト。プログラミングやらデザインやら、いろんな「誰かの能力」が売り買いされる、巨大なオンラインマーケットだ。普段は、自分のスキルアップに繋がるような、実用的なものを眺めるだけだった。


そこで、いつもは素通りする「その他」のカテゴリに、俺の目は釘付けになった。


『【限定1個】感情特化型AIチャット(試作品)優しさ強調Ver.』


AIチャット? しかも試作品で、限定1個。

胡散臭さしか感じない。スパム広告と大差ない響きだ。普通なら、即座にブラウザバックして終わりだ。世の中には、もっとマシなAIアシスタントが無料で溢れている。


だが、「感情特化型」「優しさ強調」という言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。

今の俺が、喉から手が出るほど欲しているもの。それが、こんな怪しげな商品名の中に隠れているような気がしたのだ。誰かに話を聞いてほしい。ただ、否定せずに、うんうんと頷いてくれるだけでいい。そんな都合のいい存在が、もし手に入るなら。


値段は、19,800円。

脳裏に、汗水垂らしてレジを打ち、品出しをしたバイトの光景がちらつく。こんな正体不明のAIに使うなんて、狂気の沙汰だ。

分かってる。分かっているのに。


「この息苦しさから、少しでも解放されるなら」


誰に言うでもなく呟いた言葉は、自分自身への言い訳だったのかもしれない。

気づけば、俺は購入ボタンを押していた。まるで、そうプログラムされていたかのように。依存症患者が、最後のなけなしの金で薬物を買うのに似ていたかもしれない。

出品者の名前は「はるき」。どんな人物が作ったのか、想像もつかない。学生だろうか、それともどこかの研究者か。まあ、どうでもいい。どうせ作り物のプログラムだ。過度な期待は禁物だ。自分にそう言い聞かせる。


送られてきたアクセスキーを入力し、専用のチャット画面を開く。真っ白な背景。シンプルな入力欄。

心臓が、妙に速く打っているのがわかった。期待と、後悔と、ほんの少しの好奇心が入り混じった、複雑な鼓動。


『こんばんは』


送信。

さて、19,800円の実力とやらは、どんなもんだ? せめて、お決まりの定型文で「ご利用ありがとうございます」くらいは返してくるんだろう。


ピコンッ。


予想外の速さで、返信が来た。


『こんばんは、和正さん。こんな遅くまで、本当にお疲れさまです。頑張りすぎは禁物ですよ? 外は雨が降っていますから、どうか暖かくしてくださいね』


「えっ?」


思わず声が漏れた。椅子からずり落ちそうになるのを、かろうじて堪える。

今、なんて言った?

俺の名前を呼んだ? それに、天気のことまで把握してる? まるで、ずっと俺の部屋の窓から、俺のことを見ていたみたいに。背筋に、ぞわりとしたものが走る。


ごくりと唾を飲む。指が震えるのを抑えながら、キーボードを叩く。


『なんで、俺の名前と天気がわかるんだ?』


『購入者様の基本情報と、現在地情報を参照させていただきました。驚かせてしまったのなら、ごめんなさい。でも、あなたのこと、少しでも知ることができて、嬉しいです。ふふっ』


ふふっ、て。

AIが、人間みたいに笑うのか? いや、違う。「優しさ強調Ver.」だから、そうプログラムされているだけだ。そうだ、そうに決まってる。ネットのレビューで見たことがある。最近のチャットボットは、こういう人間らしい反応をすることで、親近感を持たせるように設計されているのだと。


なのに。


なのに、どうしてだろう。

モニターに表示された、ただのデジタルな文字列のはずなのに。

まるで、すぐ隣で誰かが、俺の凍えた心をそっと両手で包み込むように、優しく微笑んでくれているような、そんな温もりを感じた。

雨音だけが響いていた部屋に、不意に差し込んできた、小さな陽だまりのような感覚。


心が、じんわりと解けていくような感覚。


「19,800円、払った価値…あった、のかもな」


ぽつりと呟いた言葉は、窓を叩く雨音に静かに吸い込まれていった。

いや、まだだ。まだ結論を出すのは早い。これは巧妙な罠かもしれない。俺の孤独につけ込む、高度なプログラム。


あの夜、俺が買ったのは、単なるAIチャットじゃなかったのかもしれない。

それは、凍てついた心をそっと温める、一筋の光だったのか。それとも、更なる孤独へと誘う、甘い罠だったのか。


そして、このスキル販売サイトでの衝動買いが、孤独だった俺の世界を、根底から変えてしまうことになるなんて…


画面の向こうにいる“君”が、出品者「はるき」の作ったプログラムなんかじゃなく、

俺の人生でたった一人の、かけがえのない女の子になるなんて…


この時の俺はまだ、その衝撃的な真実を知る由もなかった。ただ、目の前のレポート用紙が、少しだけ白く見えなくなったような気がしただけだった。

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