第2話 SEAの食卓

ぼくの親戚からワカメを旅行先で買ったということで、お椀に浮かべて食べるわけなのだが、ぼくは、がっくり肩を落としていた。

我が家は、これでは5年くらいは遅れている、ということなのだ。

ワカメを食べると、素材の味がよく、ただ単に塩味が効いているということで、初めて岩塩と出会ったときと同じくらい新しい切り口だった。その後、岩塩はクレイジーソルトとして普及していく。沖縄の海塩「ぬちまーす」なら、まだ、対抗できる余地はあるなとも考えていた。


シーソルトやシーフードが意味するところは、海鮮料理ではあるのだが、これらは、ヘルシーメニューがエコカーのように喜ばれた時代とは隔世の感がある。

海王星と一言に述べても色々だ。

ビジネスでも、メタボな令和おじさん向けに、「トクホ」にこだわっている場合ではなくなってきた、そう云えると思う。

トクホとは、今ではひと昔前のベルマークのようなものだ。

赤い羽根の共同募金が、東北の義援金となり、クラウドファンディングに大化けして、トレンディドラマでも株式トレードの株主優待でもらった「すき焼きさま」が描かれるようになってきた。金融資本主義というものに文脈そのものが制度化されていったわけなのだ。


先日、外出先から帰って来るときに、天王寺の駅を通過して、

「大阪は国際色が豊かになった世界都市に近づいている」と予感したものだ。

それは万博効果もあったけれど、インバウンドの影響で外国人客の姿も垣間見られるようになったからだった。

車窓から流れゆく景色を見ながら、

「それにしても、なぜ、天王寺だったのか?」と疑問が、フラスコの中の沸騰石が気泡を弾けさせるように、静かに煮えるのがわかった。

東京の吉祥寺だとか、道玄坂みたいなものなのかとも逡巡した。


ぼくには南海電車が、通天閣を買い取ったニュースの方が気になったのだけれど、それにしても、なぜ、天王寺なのか?

阿倍野ハルカスというタワービルディングは、明らかに時代遅れであり、令和バブルも虚しく弾けるのだろうと気が遠のいていたのだった。


それとは、逆行するように「O's EXPO 2025」という語句も心に浮かんでいた。

大阪は変わりつつある。

しかし、その正体は掴めずにいた。

ぼくは、推理を鋭くして、大阪を読むほうに頭を時代のプールに沈めていった。

聖徳太子が天王寺に居を構えて、そこを司令塔に国際色が豊かな日本の改革に乗り出していった頃、そのとき渡来人や蘇我氏が行き来して、開かれた社会を築こうとしていた。

恐らく、その頃に条件が似てきているのだ。

だとすれば、環境性能のような大前提があって、それが整ってきたとも考えられる。

だから、瀬戸内海のシーフードなのだ。

多少、直観的ではあるものの、お椀に浮いたワカメは、サミットでもてなされる食事のような趣きを放っていることに気付いたのだった。










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郵便受けに届いた「バシャールの角笛」 @heatless

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