第44話 卒業

 天花の手術は、医療スタッフさえ舌を巻くほど滑らかに終わった。

 けれど、それは「すべてが元に戻った」という意味ではなかった。

 摘出されたAI回路は、驚異的な演算能力と引き換えに、彼女の〈記憶の奥行き〉にかすかな影を落としていた。

「不思議な感じなの」

 薄桃色の春光を指先で掬いながら、天花は窓辺に立つ。

「覚えている――はずなのに、感情の色味が抜け落ちてる。誰かの夢を横からのぞいているみたいで」

 それでも――彼女は、確かにそこにいた。

 陸斗は戸惑いながらも、その“いまの天花”を迷いなく抱きとめる。

 日々を重ねるごとに、天花の表情は柔らかさを取り戻し、

 かつての野心的で冷徹な仮面ではなく、純粋で透き通った優しさをまとうようになった。

 ある放課後、教室が夕映えに染まるころ。

 天花はふと立ち止まり、小さな声で尋ねた。

「陸斗……わたし、このままでいいのかな?」

 迷わず頷く陸斗。

「俺は――今のお前が好きだ」

 その短い言葉に、天花の瞳がうるうると揺れ、やがて微笑みが咲く。

「……ありがとう」

 ほんのひと呼吸の静寂さえ、未来へ続く確かな通路に感じられた。


「やれやれ、またイチャつきやがって」

 軽い足取りで翔平が現れ、肩をすくめる。

「うるさい。まあ、おまえには感謝してるからな……」

 陸斗が笑い混じりに返すと、翔平もニヤリと応じた。

 二重スパイとしての緊迫した日々を胸に秘め、彼は仲間の背中を静かに見守っている。

 そこへ琴葉と隼人が合流する。

「天花ちゃん、前よりずっと話しやすいね」

 琴葉は慈しむように微笑んだ。

「自分でも不思議なくらい……みんなと一緒だと、心がふわっと軽いの」

 天花がそっと笑い返す。

「変わったのは陸斗の方だな」

 隼人がぶっきらぼうに言えば、

「隼人に言われたくないな」と陸斗が即座に突っ返し、自然と笑い声が弾けた。

 教室を満たすひとときのざわめき――それこそ彼らが命懸けで守り抜いた〈日常〉そのものだった。


 紅華特務局は東京支部の解体を余儀なくされ、 繁栄クラブも日本政府との間でかろうじて均衡を探り続けている。 見えない水面下ではなお駆け引きが続くが、それでも街は凪いだ。

 隼人の家では、長く凍結していた親子の対話がようやく解けはじめ、琴葉は“情報で人を守る”という新たな夢に目を向けている。

 翔平は一部の素性を隠しながらも、隼人と琴葉らには概要を打ち明け、仲間の背中を押す“影の守護者”を選んだ。しかし、紅華特務局には一生マークされるだろう。

 そして陸斗――無鉄砲だった彼は、誰かを守る覚悟という名の強さを手に入れた。

 ――これが、守りたかった世界だ。

 放課後の風に桜の花びらが舞い、吹奏楽部の音が遠くで揺れるたび、陸斗の胸にはその想いが刻まれる。

 季節は巡り、高校最後の春。

 スカイレールが街を縫い、小型ドローンが空を翔ける近未来の景色の下で、桜並木だけは昔と同じ優しい色を湛えていた。

 放課後、薄紅のアーチのもと、天花はARで生成した花びらを追いかけながら首をかしげる。

「ねえ陸斗。ARの花びらと本物の風向きが合わなくて……今日の帰りの天気は大丈夫かな?」

 かつてなら瞬時に最適解を導き出していた彼女だが、今はただ好奇心で空を見上げる一人の少女だ。

「風任せでいいさ」

 陸斗が笑うと、天花の肩の力がふっと抜けた。

 未来も、きっと晴れる。――根拠のない確信が、不思議と胸を温める。

 桜の下で、天花が制服の袖をそっと引く。

「私も……風のままに生きてもいいのかな……」

「いいんだよ。俺が――君を包む風になるから」

 頬が染まる天花。

 そして、陸斗の口から零れ落ちた。

「卒業したら――結婚しよう……」

 数秒の沈黙ののち、満面の笑みと力強い頷き。

「……うん!」

 小さな手と手が結ばれ、桜吹雪が二人の未来を祝福した。

 卒業式――体育館は拍手と笑い声に包まれ、模造紙に張られた手作りの「祝・卒業」の文字がLEDスクリーンやホログラムの中でやわらかな光を放つ。

 袴姿の天花が駆け寄り、その髪に桜の花びらが舞い落ちた。

「あれ、ついてるぞ」

 陸斗がそっと摘まむと、天花はくすぐったそうに笑い、友人たちの輪がさらに広がる。

「ホント、AI回路がなくなったらただの可愛い女の子になりやがって」

 翔平が肩をすくめると、天花はぷくっと頬を膨らませ、すぐに照れ笑いへと変わる。

「だから、これからもいろいろ教えてね」

 琴葉の穏やかな視線、隼人の照れ隠しの笑み。

「さあ、みんなで撮ろうぜ!」

 シャッターが切られる瞬間、桜吹雪が背景いっぱいに写り込み、ありふれた光景は奇跡のスナップへ変わった。


 校門を出ると、春風が花びらを高く舞い上げていた。

 陸斗は胸ポケットの小さな箱――指輪の重みを確かめ、隣の天花へちらりと視線を投げる。

 どれほど多くを失い、どんな困難が待っていたとしても、人はまた前を向ける。

 失った記憶も、失った能力も、いずれ新しい形で芽吹くだろう。

 それを希望の色に塗り替えるのは、自分たち自身だ。

 陸斗が天花の手をそっと握る。

 柔らかな体温が指先に宿り、二人はゆっくり一歩を踏み出した。

――風が連れてくる、まだ白紙の未来へ。

 その空白には、幾千の可能性が煌めいている。

 描くのは、君と僕だ。

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