第41話 蜘蛛の糸

 意識を取り戻したとき、陸斗は自分が柔らかなベッドの上に横たわっていることに気づいた。薄く漂う消毒液の匂い、整然と並ぶ医療機器、そして落ち着いた照明――どこかの救護室のようだ。けれど、そこは病院というには静かすぎた。

「目が覚めたようね」

 理知的な女性の声が、部屋の静けさを断ち切る。

 ゆっくりと首を動かし、視線を声の主へ向ける。スーツに身を包んだ女性が立っていた。三十代半ばほどの端正な顔立ち。整った黒髪と鋭い眼差しが、彼女のただならぬ立場を示している。胸元の名札には――「早乙女」。

「……ここは? 俺は……紅華特務局に……?」

 言葉と現実の落差に陸斗は戸惑う。女性は唇をわずかにほころばせた。

「ここは上海市内にある日本企業のオフィスに併設された救護室よ。あなたが“紅華特務局”へ突入しようとした瞬間、私たちが回収したの」

「“私たち”……?」

 まだ重い頭をもたげながら身を起こすと、早乙女が椅子を引き、ベッド脇に腰を下ろした。

「私は早乙女玲香。内閣府IT政策室の参事官補であり、政府が極秘で運用する防諜特務組織の現地指揮も兼任している。――表向きはただの官僚、ということになっているけれど」

 肩の力を抜いた説明とは裏腹に、その瞳にはひとかけらの揺らぎもない。

「まず、はっきりさせておきたいのは――あなたがここにいるのは善意ではない。“国家戦略の一部”だということよ」

 陸斗の背筋がこわばる。

「日本政府の一部は、紅華特務局が推進する“人間改変技術”と“AI回路の違法研究”を国際問題化し、影響力拡大を封じ込める使命を帯びている。そして神崎天花という存在は、その中核にいる――あなたもね」

 彼女の言葉には、正義とも悪とも異なる鋼の圧力があった。

「上海は紅華の心臓部に近い。あなたがここへ来ることは、ある程度読めていた。入国直後から追跡していたの」

 陸斗の胸が疼く。独断で決意したはずの突入計画すら読まれていたというのか。

「……つまり、あの“黒いスーツ”たちは紅華の職員じゃなかった……?」

「察しがいいわね。彼らは私たちが仕込んだ現地協力要員。“紅華の内部職員”を装ってもらったの。紅華側に正体はバレていない――今のところは」

 冷静な響きの裏に、余裕を欠く張りが潜むのを陸斗は感じ取る。

「でも……どうして俺を助けた? 誰がこの作戦を――」

 玲香は一瞬だけ視線を下げ、慎重に名を告げた。

「翔平くんよ。あなたのかつての仲間、西野翔平」

 陸斗の目が大きく開く。

「……翔平が……?」

「ええ。彼は二年前から紅華に選抜され、“ヤングエージェント”として育成された。同時に私たちの接触を受け、二重スパイとして動いていたの」

 玲香の声は静かだが、その奥に重い決意が宿る。

「彼は自分が憎まれることすら覚悟し、“紅華の犬”を演じてあなたたちを守った。あの夜、もし彼が迷えば――君は今ここにいなかった」

 胸に熱いものが込み上げ、陸斗は唇を噛む。

「……そんなこと、言えよ……」

「言えないわ。真意を隠しきることが、ダブルスパイが生き延びる最後の防波堤だから」

 救護室の空気が張り詰める。玲香は立ち上がり、背筋を伸ばした。

「――日本政府がここまで動くのは、安っぽい正義感からじゃない。紅華が進める“バッジ制度を絡めた国際的思想工作”は、私たちの安全保障に直結する脅威なの。あなたたちの学校で起きたことは、偶然ではない“前哨戦”だった」

 その言葉は説明ではなく、痛みを背負った現場の声だった。

 陸斗は呟く。

「……それでも、俺は動かざるを得なかった。天花は……ただの装置なんかじゃない。あいつの中には、人間の心がある」

 玲香は深く頷く。

「――馬鹿の一つ覚え。でも、それでいいわ。あなたの“行動”がなければ、翔平くんも私たちもここまで踏み込めなかった。危険な一手だったけれど、誰にも真似できない一手よ」

 だが彼女は表情を引き締める。

「いま、紅華とは“天花を日本へ戻し、AI回路を摘出した上で人間性を維持する”方向で極秘交渉を進めている。全面対決は双方避けたい。だから均衡は奇跡的に保たれている。でも君が再び無茶をすれば、一瞬で崩れるわ」

 玲香は陸斗の目を見据えた。

「――だから私は“日本に戻ってほしい”としか言えない。動かないことが、今の君にできる最善の行動よ」

 陸斗は目を伏せ、深く息を吸った。

「……わかってます。待つことが一番苦しい。でも、もし天花が助けを求めたら――迷わず飛び込む。それだけは決めてる」

 玲香はわずかに微笑んだ。

「その覚悟がある限り、あなたは彼女にとって希望になる。私たちがどんな交渉をしても、それだけは代替できない」

 短い沈黙のあと、彼女は静かに続けた。

「翔平くんは今も紅華の中で危険を冒している。君たちが彼を信じること、それが彼の唯一の支えになるわ」

 陸斗は拳を握りしめる。

「……翔平の覚悟、無駄にしません」

 窓の外には冬の光。嵐の前の束の間の静けさだ。

「……天花が帰って来たとき、ちゃんと迎えられるように――俺は日本で準備します」

 玲香は小さく頷き、重かった空気がわずかに緩む。

「それでいいわ。君ならきっと乗り越えられる」

 未来への不確かな道。その中央に、たしかな決意が灯っていた。

 陸斗は天井を仰ぎ、そっと拳を握った。

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