第40話 乾坤一擲の覚悟
翌朝。冬の曇天が、上海の高層ビル群を鈍い灰色に沈めていた。呼気は瞬時に白く凍え、ビルのガラス面をなでる風の音が、都市の芯まで染み込んでいく。
陸斗は、紅華特務局――上海本部の正面に立っていた。
眼前にそびえる巨塔は、ただ高いだけではなかった。幾何学的に研ぎ澄まされた外装は血の気を失ったように無機質で、「世界の理(ことわり)を嘲る城塞だ」と訪れる者すべてに無言で告げている。周囲を囲む外資系企業の本社ビルや超高級モールはことごとく地上を視界の下へ押し下げ、都市そのものが身分の差を体現しているかのようだった。
事前調査によれば、紅華特務局は表向き「経済と安全保障の均衡を追求する独立系調査機関」を自称している。だが実態は、アジア圏の富裕層と国際資本のネットワークを背景に、合法と非合法の狭間を自在に跳躍する影の特務組織――中国政府の一部高官とも密に繋がり、国際社会が手を出し損ねる“暗黙の中間領域”を踏み荒らしているという。
ここには、天花がいる。紅華が追求しているのはAIとバイオテクノロジーの融合、それに留まらず人格そのものへの介入と支配だ。天花は、その最前線に置かれた生きた証拠。陸斗は手袋越しの拳をきつく握り、わずかな震えを呼吸で押さえ込んだ。
(……ここで、俺に何ができる?)
自問する。自分はただの高校生で、正義を振りかざせる立場ではない。それでも――天花が道具として壊される未来だけは、どうしても許せなかった。
(ごめん、父さん、母さん。無茶はしないって誓ったのに)
胸の奥でそっと家族へ謝り、深く息を吸った。鼠が泰山を鳴動させるほど無謀でも、この想いだけは誰にも踏みつぶさせない。
自動翻訳機を起動し、陸斗はビルに向かって歩き出した。
正面玄関――分厚い強化ガラスのドアは量子暗号化されたIDタグを読み取るまで開かず、天井を滑走するドローン型セキュリティユニットが来訪者の顔と歩容をリアルタイムで照合する。ゲートを進むにつれ、赤外線と短波レーダが衣服下の金属密度を計算し、AIセントリーが脈拍・皮膚電位・マイクロ表情まで測定して「潜在的敵対度」を数値化する――国防機関の中枢を思わせる警戒態勢だった。
受付フロアは、ホログラムの案内標識とヒューマノイドのコンシェルジェが静寂を保っている。人間の係員は背後の防弾ガラス越しに控え、必要最低限の会話しかしない。情報統制と威圧の両立――“人を寄せつけない歓迎”こそが紅華流の礼儀らしかった。
陸斗は躊躇わず受付に向かった。
しかし途中で二人の黒スーツが音もなく左右に並び立つ。動作は滑らかで、完璧に同期していた。
「神崎天花に会いたいのなら、このまま黙って歩け」
右の男の声は低くよく通り、最初から彼の行動をすべて読んでいたかのようなタイミングだった。驚く暇もない。腕を掴まれるわけでもなく、しかし退路を封じる絶妙な距離で、彼らは陸斗の前後を挟む。
(……仕組まれていた? いや、天花の名前を出されたからこそ進むしかない)
「お客様、こちらへどうぞ」
周囲に聞こえるようわざとらしい案内が響き、エレベーターの扉が静かに開く。三人は自然な流れで内部へ吸い込まれていった。
壁面には無数の光点――生体センサーが埋め込まれ、搭乗者の身体を瞬時にスキャンし、自動的に色彩の無い幾何学コードで行き先を告げる。常人には読めない暗号が、このビルの秩序を支配していた。
ドアが閉まる直前、陸斗は上海の街を一瞬だけ振り返った。灰色の空と渦巻く都市の息吹は遠ざかり、静電気のような緊張が胸に刺さる。
(もう戻れない――でも、後悔はしない)
甘い薬剤の匂いが鼻腔を撃ち、世界が揺れた。芯を掴まれたように膝が崩れ、視界がねじれていく。
「……っ、くそっ……!」
喉の奥で絞り出した声は、薄い空気の膜に吸い取られた。意識が沈みゆく暗闇の中、最後に届いたのは、確かに彼女の声だった。
――「陸斗、また会えたらいいね……」
懐かしく、あたたかく。陸斗はその声に抱かれるように、静かに目を閉じた。
闇へ落ちる寸前、彼の胸にはただ一つの確信があった。
天花は人間だ。機能ではなく、心を持ったひとりの人間――だからこそ、救わなければならない。
その思いだけが、いつかこの氷の城塞を揺るがす震源になる。そう信じながら、陸斗は大鯨に飲み込まれたアミのように深い闇の底へ身を委ねた。
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