第39話 伴走者の資格
もっと天花の面影を追っていたい――そんな名残惜しさを胸に、黄昏どきの校門を後にしようとした刹那、一人の男が民部陸斗の前に立ちはだかった。
痩身で五十代後半。吊るしものの簡素なグレーのスーツが体に馴染んでおり、眼鏡の奥の瞳は沈着そのもの。翻訳機を胸元に留め、まるで気圧を測るかのように陸斗を観察している。
「君が……民部陸斗君だな」
訛りも抑揚もない淡々とした中国語が、翻訳機の人工的な声で和訳される。
「あなたは……?」
「李文斌。――神崎天花を紅華特務局へ“導いた”者だ」
その名に、陸斗の背筋は緊張で鳴った。天花の運命を決定づけた張本人――。胸を突き上げる怒りと焦燥を、彼は必死に押し隠す。
「……どうして俺の前に?」
李は穏やかな仕草で手を差し伸べた。
「ここでは落ち着かない。案内しよう。君と“確かめ合う”ためにね」
無言でうなずき、陸斗は男の背を追った。二人は裏通りへ入り、古びた石畳の路地を抜け、春節前夜で賑わう屋台街へたどり着く。赤提灯が揺れ、香辛料と油の甘い匂いが重なる混沌の空気――それでも、李の歩みと声だけは終始静謐だった。
「ここは、地元民しか知らない名店だ。勝手に誘ったお詫びに奢ろう……上海名物、小籠包でも味わいながら話そうか……」
年季の入った椅子に腰を下ろし、蒸籠が運ばれて来る。透ける薄皮が薄桃色の湯気を孕み、ぷくりと膨らんでいた。
「熱いから気をつけて。中のスープが舌を焼く」
李は軽く笑うが、視線の刃は油断無く光る。陸斗は慎重にひと口かじり、舌に広がる肉汁の熱と旨味を味わう――だが喉元に残るのは油ではなく、言葉の重みだ。
「――君が、天花にふさわしい“伴走者”かどうか、それを確かめたくて来た」
「伴走者……?」
「天花は特別だ。単なる監視対象でも、プロジェクトの副産物でもない。――彼女は、人類史にとっての“特異点”だ」
耳にしたばかりの単語に、陸斗の脳裡で別の情景が蘇る。つい先日、桜井琴葉と交わした会話――”特異点”シンギュラリティと人間のバイオノイド化……。あのとき琴葉と語った危惧……。それが今、李の言葉と奇妙に重なる。
李が指を鳴らすように言う。
特異点――昨日、琴葉が口にした概念。陸斗は息を呑む。
「……君は、シンギュラリティを信じているのか?」
「信じるかどうかより、それにどう向き合うか……それを考える方が先だと思う……」
李は目を見開いて続けた
「……うん、いい答えだ……まさに私もそう思っている。問題は、それが到来したとき“誰が”その恩寵を手にするのか。テクノロジーは平等ではない。紅華特務局のような組織は、その利権を独占しようとしている。――だが天花は、そんな歪んだ未来への唯一の“異物”だった」
爆竹の乾いた音が遠くで弾け、赤い紙吹雪が夜風に舞う。陸斗は拳を握りしめた。
「それなのに……あなたは天花を引き渡した」
李は小さく首を振る。
「“招待”した――と言うべきかもしれない。当時の私は希望という言葉の重みを量れなかった。ただ取引を重ね、最短距離で己の理想に近づこうとした。――だが、理想は時に“道具”となる。革命も自由も、誰かの支配のために利用される。私は、天花が『啓示』として消費される未来を恐れるようになった」
「天花は、人間なんだぞ!」
想いが噴き出し、声が震える。
「知っているさ。だが我々の一部は、彼女を“天に与えられた恩寵”と呼び、ただの象徴に仕立て上げたがっている。だからこそ、私は見極めねばならなかった――君が“利用者”ではなく、“理解者”として伴走できるかを……」
陸斗は勝手な理屈に沸き上がる怒りを抑えながら深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「天花がどういう立場でも……俺は、あいつの味方でいたい。あなた方のくだらない理屈に付き合う必要はない。それだけだ……」
李の口元に、初めて人間らしい苦笑が浮かぶ。
「その“それだけ”が、どれほど困難か――。だが、それこそが世界に必要な“狂気”でもあるかもしれないな……」
彼は遠い目をしながら箸を置き、立ち上がった。
「ありがとう。生きている間に、君のような若者に会えてよかった……今日、案内できるのは、ここまでだ」
ふたりは雑踏を抜け、夜の校舎裏へ戻る。遠くのビル群の光がまたたき、春節の夜風が二人の影を揺らした。李は最後に足を止め、静かに言う。
「君が、天花にとって選ばれた伴走者であることを祈る。世界は君たちに道を示さない。迷い、傷つき、それでも自分の信じたものを手放すな」
そう告げ、李文斌は路地の闇へ溶けていく。その背中には、孤独と贖罪の影が滲んでいた。
拳を握りしめたまま、陸斗は上海の星空を仰いだ。そこには、かすかに揺れる希望の光――天花の瞳のように、確かに瞬いていた。
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