第31話 わかっていても
ラウンジの個室には、緊張を孕んだ沈黙が漂っていた。空調が整えられた空間であるはずなのに、冷たい重圧が四人の胸にひたりとまとわりついている。テーブルに置かれた紅茶は湯気を立てていたが、誰も手を伸ばさない。ただ胸の奥で天花の名を繰り返し反芻し、紅華特務局の罠に巻き込まれた現実を噛みしめていた。
「……罠だとわかっていても、本当にやれるんですか? 向こうは、こっちの動きを完全に読んでるんですよね」
陸斗の声は低く抑えられていたが、その中には隠しきれない焦燥と怒りが混ざっていた。榊原は一拍の沈黙を置き、慎重にタブレットを操作しながら答える。
「承知の上だ。紅華特務局が天花の情報を意図的に漏らしたのは、こちらの動きを誘導し、罠にはめるためだ。しかし、針の先にかかった魚にもすり抜ける術がある。釣り人が一瞬でも油断すれば、その隙を突いて逃げることも可能だ」
モニターに映し出された地図には、複雑な警備網とそのわずかな隙間が示されていた。
「方法は複数あるが、我々が選ぶのは短時間の一発勝負だ。動けば必ず気づかれる。だが、相手の情報処理が一瞬だけ遅延するポイントが存在する。そこに全てを賭ける」
隼人が腕を組み、重苦しい吐息を漏らした。
「……ギャンブルですね。それ以外の方法は、本当にないんですか?」
榊原は静かに頷く。
「長期戦は不可能だ。紅華特務局の監視は厳重で、警察も政府筋も信用できない。天花が『計画終了』とみなされる前に動くしかない」
翔平がソファに沈み込み、苦笑した。「一撃必殺、釣り針の上で踊れってことっすか……」
「その通りだ」榊原の言葉は冷淡だった。「しかも、誰か一人でも感情に呑まれれば、そこで終わりだ」
重い沈黙が再び場を支配する。琴葉がテーブルの紅茶を見つめ、小さく震えながら呟いた。
「わかってる……でも、それでも行かなきゃいけない気がする。たとえ僅かな一瞬でも、主導権を握れるなら……」
翔平が肩をすくめ、軽く笑った。
「ま、魚になるのは得意だよ。水の流れを読むのは昔から慣れてる。ただ、慢心すれば思わぬ流れに身を取られるけどな……」
個室の空気はさらに濃く重たくなっていく。隼人が厳しい目つきで榊原を見据えた。
「でも、その一撃を打つにはタイミングと場所の情報が不可欠です。失敗は許されない」
「詳細は後で伝える。ただ、覚悟は今決めてほしい。これは君たちの自由意志に任せる。ただし、情報漏洩は許されない。EXODUSのルールだ。違反があれば、私刑も辞さない」
決定的な沈黙が四人を包む。それぞれが心の内側に針を刺し、自らの覚悟を試されている。
やがて、翔平がゆっくりと口を開いた。
「俺は正式にはパスだな。私刑とかマジ怖いし、裏方の方が性に合ってる。でも、陸斗たちが危険を冒すのを放置するのも違うと思うんだ。だから、俺は俺なりに、外からサポートする」
その口調は軽いが、眼差しには深い真剣さが宿っていた。榊原は何かを察したのか、小さく目を細めただけで追及はしなかった。
隼人が紅茶のカップを見つめながら静かに言う。
「僕も正式な参加は難しいです。やはり父の存在が僕には重い……理事という立場は力になる反面、枷にもなります」
彼は言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「でも、僕には僕なりの方法があると思ってる。理事の息子だからこそ使えるルートがある。それを生かして、陰からでも協力したい」
榊原は隼人を見て深く頷いた。「そうだな。静かに流れを変える者こそが、大局を左右することもある」
それでも隼人の表情からは葛藤が拭えず、譲れないものを抱える苦さが滲み出ていた。
「琴葉、陸斗。君たちは?」
榊原が慎重に言葉を選びながら、改めて陸斗に向き直った。
「君の動機がただの恋情ではないと、どう証明する?」
翔平が軽く肩をすくめ、「いきなり深掘りっすか」と呟いたが、榊原は続ける。
「我々が立ち向かおうとしているものは、個人感情で割り切れる規模ではない。国家、社会構造そのものだ。ただ一人の少女のために世界に手をかける覚悟はあるのか?」
陸斗は視線を逸らさず、静かに言葉を紡ぐ。
「……恋だけじゃありません。天花が大切です。でも、それだけじゃない。あの子が懸命に馴染もうとしている姿を見て、世の中の“当たり前”が歪んでいると気づいた。ヒューマノイドやバイオノイドが道具扱いされる社会、バッジ一つで人間の価値が決まる仕組み。それを許せない」
迷いの消えた声に、榊原は満足げに頷いた。
だが陸斗は言葉を止めなかった。
「こっちが命を張る覚悟を問われるなら、僕も聞きたい。EXODUSとは結局何者なんですか?」 榊原は僅かに微笑む。
「君がそれを問うのも当然だ。EXODUSは超富裕層が企てる新世界秩序に対抗する“クラウド国家”だ。完璧な正義ではないが、少なくとも人間の心を失った側には立たない」陸斗はその言葉を受け止めた。
榊原は次に琴葉へ視線を向ける。
「琴葉、君はなぜそこまで肩入れする?」
琴葉は静かな視線を下げながら語った。
「私は社会に裏切られてきたからこそ信じたい。母と二人で差別を受け、見えない壁にぶつかった。ヒューマノイドや外国人が道具扱いされる現実に、昔の自分を重ねてしまう。だから天花の人間性を奪った側を許せない」
榊原はゆっくりと頷いた。
「その気持ちは重要だ。感情は時に世界を変える導火線になる」
榊原が二台のスマートフォンを卓上に置いた。
「情報漏洩は組織の死を意味する。慎重に使え」 端末を手に取った陸斗の脳裏には、あの夏の日の記憶が鮮やかに蘇っていた。
最後に榊原は静かに言った。
「正直に言えば、君たちの年齢の者にここまでの責任を負わせるのは苦しい。しかし、“記憶”と“感情”を持つ君たちの力が必要だ」
再び満ちた沈黙は、しかしもう停滞してはいなかった。確かな熱が彼らを包み込む。
陸斗は心の中で強く誓った。
(天花、君自身の意志で、この歪んだ世界に応えてほしい)
琴葉はそっと目を閉じ、小さく囁いた。
「これで、すべてが始まるんですね」
翔平が空気を緩めるように呟いた。
「クリスマスって、もっと浮かれてもいい日だったんじゃないっすかね?」
誰も笑わなかったが、張り詰めた空気が静かにほどけていく。
冬の夜は、より深く、冷たく沈んでいった。 だがその闇の底で、小さな火種が確かに灯されていた。
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