第30話 再び仕掛けられた罠

――数週間が経ち、街は深い冬の気配に包まれていた。 東京はクリスマス間近で、夕暮れにはイルミネーションが鮮やかに輝き、商業ビルのガラスに映り込む赤や金の飾りがきらめいている。駅前やショッピングモールには人波の喧騒があふれ、人々は誰かを待ちながら、手に何かを握りしめていた。

 そんな華やぎから離れた再開発区域の一角に、桜井琴葉は静かに佇んでいた。

 ビルの谷間を滑る冷たい風が、琴葉の頬を撫でていく。身を縮め、手にしたスマートフォンの画面を見つめると、そこには短い符牒が表示されていた。

『W25』『CTラウンジ』『天花対策案件』

 送信者の名前はなく、『SYNCH6-AKIB』という奇妙なIDだけが示されている。

(榊原さん……)

 琴葉の胸に冷たい感覚が走った瞬間、あの夏の記憶が鮮やかに蘇った。紅華特務局。天花。消えた少女。 すべてが終わったと思っていたが、それは一時の静けさに過ぎなかったのだ。

 警察沙汰で消去された秘密のスマホは、もうない。今届いたのは個人端末だ。EXODUSが通常通信で連絡をよこすことに疑問はあるが、それ以上に琴葉を戸惑わせたのは、『自分一人で背負うべきか』という問いだった。

 けれど彼女の心には、何度も迷いながらも「天花を信じたい」と口にした陸斗の姿が浮かぶ。

 悩み抜いた末、琴葉は短いメッセージを送信した。 陸斗、隼人、翔平。 返信はすぐに届いた。

 その夜、学園近くの静かなカフェで四人が顔を合わせていた。

 店内の隅、琴葉はスマホをテーブルに置いて静かに口を開く。

「……やっぱり、EXODUSからの連絡だと思う。『W25』はたぶん二十五日、『CTラウンジ』に十九時集合、『天花対策案件』って書いてある以上、何かが起きてる」

 隼人が苦笑しながら頭を掻いた。

「また危険なにおいしかしないな。しかし、ここで背を向け続けるわけにもいかないだろ……」

 口調は軽くても、その指先が微かに震えていることに琴葉は気づいていた。

 翔平はストローをくわえたまま目を細めて呟く。

「天花ちゃん、普通じゃない消え方だよな。でも、やるなら今回は勝算がほしい。逃げるにしても全力で、やるにしても本気でって感じでさ」

 陸斗は沈黙したままスマホを見つめていたが、やがて深く息を吐いて口を開く。

「行くよ。俺が止まったら、誰も先には進めない。天花がまだどこかにいるなら、確かめたい」

 その言葉に誰も異を唱えなかった。 琴葉も小さく頷く。

「私も全部がわかってるわけじゃない。でも……これは、もう一度あの夏の続きに立ち向かう機会じゃないかしら。一歩一歩、確かめながら」


 数日後、指定された『CTラウンジ』は、再開発途中の区域、地下に位置していた。

 小さなネオンがひっそりと灯る入り口。控えめな音楽と薄暗い廊下を進むと、都市の皮膚の下に潜む脈動のような気配を感じる。

 受付のスタッフは無言で琴葉の「榊原さんからです」という言葉に頷き、重厚な扉が静かに開いた。

 個室ラウンジに通されると、一人の男がすでに待っていた。

 初老の男、スーツ姿の榊原。 あの夏、一度だけ彼らを導いたEXODUSの主任だった。

 榊原は顔を上げ、穏やかながらも鋭い目線で四人を見据える。

「よく来たな……話は山ほどある」

 ソファに腰掛けるよう促され、四人が向かい合うと、榊原はタブレットを手に取り、個室の壁一面に都市マップを映し出した。

 東京を中心に、赤いマーカーが多数点滅している。

 榊原は深刻な面持ちで口を開いた。

「前回、君たちには不本意な形で巻き込まれ、我々も何の支援もできなかった。その件については改めて謝罪する。だが、再びこうして接触したのは、それを上回る緊急事態が迫っているからだ」

 榊原の声は静かだが、その底には鋼のような決意が込められている。

「紅華特務局は再び動き出した。特に天花に関連する活動痕跡が複数確認されている。彼女は今も『計画』の一部で、何らかの命令下にある可能性が高い」


 四人が無言で見守る中、榊原は続けた。

「そこで我々EXODUSは正式に『天花対策プロジェクト』を立ち上げた。その目的は三つ。天花の保護、紅華特務局東京支部の活動抑止、そして――彼らの『本当の狙い』の解明だ」

 榊原の眼光が鋭く四人を射抜く。

「君たちに、この計画への参加を打診したい。共に戦ってくれるか?」

 緊張が部屋の空気を満たし、誰も即答できなかった。けれど、彼らの眼差しにはそれぞれの覚悟が宿り始めていた。

 琴葉がためらいながら問いかける。

「でも……また非合法的な活動になるってことですよね?」

「当然だ。公に動けば、政府筋や警察に潰されかねない。紅華特務局の背後には一部の政財界人や国際的な資本層も絡んでいる。しかも、警察は前回特務局に踊らされ、信用を大きく失っている。迂闊には動けないはずだ。だからこそ、表からではなく、内側から動く必要がある。……ただし、裏切りがあれば、我々は容赦しない。これは戦争だと考えてくれ」

 重い空気が漂う中、榊原はさらに静かに語り始めた。

「紅華特務局の目の前の狙いは、日本式のヒューマノイド制御モデルの転用だ。日本の分散型で社会に溶け込ませる方式を、中国式の中央集権統治に移植しようとしている」

 タブレットに映された都市部を網のように覆う監視ネットワーク図が、不気味な未来を示していた。

「バイオノイドを“高性能な反体制監視ツール”として都市部や移民層に配備する計画だ。単なる防犯ではない。社会不安を抑え込み、政府批判の芽を摘む――言わば魂そのものを管理する計画だ」

 翔平が、静かな怒りを込めて呟く。

「マジで……笑えねえ。ガス抜きまでAI任せってことっすか?」

「その通りだ」榊原がうなずく。

「日本が表面的に保つ調和モデルをテンプレートにして、自国の格差や抑圧を目立たせないようにしている」

 琴葉が静かに問いを継ぐ。

「……天花さんは、その計画の一部だったってこと?」

「その通りだ」榊原は明確に肯定した。「天花は関わった者の感情をコントロールすることでバイオノイドが社会適応に与える影響を観察する試験体だった。人間と深く関わらせ、意図的に破綻を誘導し、システムの限界を試していた」

 陸斗が唇を噛み、拳を強く握りしめる。(天花が……そんな……)

「さらに彼らは、刷り込み可能な人格を開発した。思想や信条を意図的に教育し、バイオノイドに愛国心や敵意、忠誠心を植えつけることも可能だ。つまり、AIを通じたナショナリズムの育成だ」

 沈黙が広がる中、榊原の言葉はさらに重く続く。

「学園全体を仮想国家に見立て、バイオノイドと人間を組み合わせた統治実験が行われていた。生徒会、バッジ制度、対立の発生と収束……それら全てが差別構造の再生産を観察するための“倫理逆転モデル”だった」

 再び沈黙が落ちた。陸斗、琴葉、隼人、翔平――それぞれの胸に別の意味が重くのしかかっていた。

「天花は、ただの駒ではない。彼女自身がこの計画の核心だった。そして今、その計画は終わりに近づいている。処分される前に、我々が動かなければならない」

 誰も言葉を返せなかった。遠くの空で微かな雷鳴が響き、地下ラウンジの空気がさらに冷え込んだ。

「……俺、やりますよ。処分……つまり、消されるかもしれないんですよね?だったらなおさら……早く動かないと」

 陸斗の言葉は凍った空気に熱を灯した。

「その覚悟、受け取った。ただ、まだ君たちに話していないことがある」

 榊原が静かに視線を向ける。

「我々が掴んだ天花の情報は、紅華特務局が意図的に流した可能性がある。つまり――私たちは“誘われた”可能性がある。天花という餌の罠に」

 琴葉の手が微かに震え、翔平が呟く。

「……俺たち、また、釣られてんのかよ」

 榊原は深く頷く。

「紅華特務局は東京支部の一部を使い、撤退前に我々EXODUSを叩こうとしている。我々は彼らにとって邪魔者に過ぎず、掃除すべき敵だ。これは我々にとって良くも悪しくも決定的な条件になる」

「天花さんは……その罠の中心にいるってことですね」琴葉が掠れた声でつぶやく。

「そうだ」榊原は重く答える。

 陸斗がゆっくりと、しかし揺るぎない瞳を上げた。

「……それでも行きます。たとえ罠でも――天花がそこにいるなら」

 榊原の表情に、微かな笑みが浮かんだ。それは覚悟への敬意と、逃れられぬ運命への哀悼を秘めていた。

「君の言葉が罠に誘われる理由であり、また君の武器でもある。正義は疑われ、情熱は測られるだろう。だが、迷いは人間の証だ。踏み間違えるな――」

 誰も答えなかった。ただ天花の笑顔だけが、陸斗の胸にあった。

(あれが全部嘘だったなんて、俺は信じたくない)


 翔平は内心、苦笑する。

(バカだな、オレら。でも、バカでいられるうちが華かもな)

 隼人は拳を握り締めたまま微動だにしない。

(俺は俺の目で確かめ、頭で判断する)

 琴葉は黙ってスマホを握りしめた。

(私たちが選んだ道。もう後戻りはできない)


 外の喧騒が微かに漏れる中、この小さな部屋だけは別世界だった。

 誰にも奪われぬ決意を胸に、冬の夜は静かに深まっていった。

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