第28話 戻りゆく日常と消えない痛み

 それでも陸斗は、特別な反論もせず、ただ教室の隅の席に静かに座っていた。

 周囲からの冷たい視線やひそひそ話が耳に入っても、何も言い返さなかった。

 笑われても、疑われても、それでも――天花のことだけは、どうしても忘れることができなかった。

(あれが全部、嘘だったとは思えない)

 事件の真相がどうであれ、夏の日々に感じたあの確かな鼓動だけは、胸の奥に残っている。

 天花が見せた表情、触れた手の温もり、交わした言葉。

 それらが“演技”だったとしても、自分にはそれを裏切りだと決めつけることはできなかった。


 だからといって、できることは何もなかった。

 ただ日々の授業に身を預け、定期テストの問題集をめくるふりをする。

 心を空にして、淡々と過ぎていく“何もない日常”に自分を閉じ込める。

 家族には、なぜこのようなことになったか正直に話した。家族は信じられない話だが、陸斗の言葉を理解しようと努めてくれた。しかし、家族に対する世間の目が厳しいことには変わりなかった。


 琴葉もまた、自分なりに前へ進もうとしていた。

 EXODUSとの連絡は、あの日以来一切返ってこなかった。

 何度も送ったメッセージには既読さえつかず、アカウントのアクティビティも途絶えている。

(もう、私たちは“現場”から外されたんだろうな)

 そう思いながらも、琴葉は毎朝、生徒会の鍵を手に校舎へと足を運ぶ。

 事件の記憶は消えない。それでも、日々の責務をこなすことだけが、自分の“居場所”を証明する手段だった。


 一方、隼人は――

 父から「もう深入りするな」と告げられた言葉を、表向きには従順に受け入れていた。

 だが、心のどこかでは引き裂かれるような感覚が残っていた。

(俺は……もう後戻りできないんだ)

 カードキーを盗んだあの夜。

 父を裏切ったわけではなかった。ただ、自分の意志で、自分の道を歩いてみたかっただけ。父はそんな隼人の気持ちを理解していたようだ。しかし、心から許してくれている訳ではなかったようだ。

 父は自分が気づかなかった問題について、息子に独断で大事を選択させていたことにも悔しさを滲ませていたようだ。


 翔平はというと、いつもの軽口を織り交ぜて周囲と関わっていた。

「いやー、マジで映画だったわ、あれ」と笑いながらも、その目はどこか遠くを見ていた。

 彼は誰よりも“空気”を読む。

 だからこそ、騒ぎの後でもあえて“ムードメーカー”を演じていた。

(あんな世界、二度と関わりたくない――でも、まだ終わってないとも思ってる)

 その矛盾を抱えながら、翔平は今日も周囲に溶け込もうとしていた。


 そして、放課後の屋上。

 空が夕焼けに染まるなか、陸斗はフェンスに背を預け、ただ空を見つめていた。

 風が吹き抜けるたび、どこか懐かしい夏の匂いが甦ってくる。

 天花と並んで眺めた空。何もかもが信じられた、あの穏やかな時間。

 けれど今、その空の下に彼女の姿はない。

「……たとえ全部が罠でも、たとえ全部が嘘だったとしても……俺は、あいつを信じる」

 誰に向けたでもない声。

 それでも陸斗の中に、確かに火種のように灯る想いがあった。

(あの日、あの瞬間だけは、あいつの言葉は……本物だった)


 それは決意とも祈りともつかぬ、けれど確かな誓いだった。

 そして空は、何も知らないかのように静かで、どこまでも高く澄んでいた。


 天花がどこにいるのか、今どうしているのか。

 それは誰にも分からない。

 ただ一つ、確かなこと。

 この物語は、まだ終わっていない。

 あの夜の炎がすべてを焼き尽くしたとしても、その灰の中から、何かが生まれようとしていた。


 季節は冬。教室には赤・紫・青のバッジをつけた生徒たちが入り混じり、いつも通りの授業が進んでいる。3年生は部活も引退し、話題は受験一色になっている。そんな一見すると何も変わらない平穏な学園生活。その風景を眺めながら、民部陸斗はどこか浮かない表情で自分の席へと向かった。

(あれだけの大騒ぎがあったのに、みんな忘れたように“日常”に戻るんだな……)

 背後で交わされる会話に、彼の名前がひそひそと混ざる気がした。警察の公式発表で“冤罪”と結論づけられたとはいえ、一度拡散された噂は完全には消えない。クラスメイトが「おはよう」と声をかけても、微妙な遠慮を含んだまなざしが痛かった。


 事件後、学園ではかつての「ヒューマノイド騒動」やバッジ制度に関する不満が嘘のように消えかかっていた。青バッジの生徒たちは、前よりも自然にクラス活動へ加わり、以前ほどの衝突は見られない。

(本当に目的は何だったんだ、紅華特務局……)

 陸斗は視線をノートに落としながら思う。


 日本のバッジ制度は、少子高齢社会の危機を根本的に解決しようと急造された“革命的な施策”だった……とはいえ、その急ぎ足の制度設計には綻びも多く、そこに中国系組織が入り込んでOSを乗っ取ろうとしたのか、それとも日本独自のAIノウハウを盗もうとしたのか……。いくらでもつけ入る隙はあったように思える。


 しかし、もし彼らの狙いが“ヒューマノイドのOS書き換えによる混乱”や“中国の思想を植え込む”ものだったとしたら、なぜこの学園を選んだのか。しかも、あの夜、わざわざ陸斗たちに罠を仕掛け、紅華特務局の存在を暴露するような行動を取った意味は何だったのか?すべてが曖昧なままだ。


 放課後。生徒たちが談笑しながら校門へ向かう中、陸斗は静かに生徒会室へと足を向ける。2年生への引き継ぎ資料が山積みになった机の前で、彼は深く息を吐いた。

 その背後から声がする。

「……よぉ、民部」

 振り向けば、山城隼人が無造作に書類を抱えて立っていた。

「なぁ、お前……今でも天花のこと、信じてんのか?」

 静かな口調だったが、その声には抑えきれない苛立ちが混じっていた。

「……俺たちがどれだけ巻き込まれたか、分かってんだろ。親父にまで迷惑かけて……それでも、まだ……」


 言いかけて、隼人は拳を握ったまま目を伏せる。

 彼にとっては“ただの事件”では済まされなかった。家族の立場、背負うもの、それが重くのしかかっているのだ。

 陸斗は何も言い返せなかった。心の奥では、まだ天花に縛られている自分がいることを痛いほど分かっていたからだ。


 生徒会室の端で淡々と仕事をこなしていた桜井琴葉は以前のように軽快な口調で話しかけてくることは減ったが、かといって完全に距離を置いているわけでもない。

 EXODUSとの連絡は、あの夜を最後に途絶えていた。何度かアクセスを試みたものの、返ってきたのは「現状静観」とだけ表示された冷たい通知。

(たぶん、もう私は“現場”では使われないってことなんだろうな)

 それでも琴葉は、毎朝きちんと制服を着て、生徒会の鍵を手に校舎へ向かう。“普通の毎日”を積み重ねることが、いまの彼女にできる唯一の責任の果たし方だった。


 一方、西野翔平は、いつも通りの調子でクラスに現れ、笑いを取ろうとする。

「いやー、俺が主役の映画だったら、ラストは脱獄だよな!」

 周囲から軽く笑い声が上がるが、その背後に漂う空気の重さを彼は誰よりも敏感に察していた。


 生徒会室。陸斗が書類を整理していると、翔平が顔を覗き込んできた。

「なぁ、陸斗。……天花の“本当の目的”って、何だと思う?」

 軽く問いかけられただけなのに、胸の奥が痛んだ。

 そこへ琴葉が背後から静かに割って入る。

「紅華特務局が、あんな簡単に尻尾を掴ませるわけない。……私たちは、何か“見せられた”だけじゃないの?」

 それを聞いた翔平は肩をすくめた。

「だよなぁ。俺たちが見たものが、全部“演出”だったとしたら……むしろ向こうの方が一枚上手だったってことか」

 そのやりとりを黙って聞いていた隼人が、ぽつりと呟いた。

「……でも、もしまた何か起きたら、俺は――またここに戻ってくるかもな……まあ、その時に協力できるとは限らないけれどな……」

 短い言葉だったが、そこに込められた決意を、陸斗は確かに感じ取った。

 陸斗は顔を上げ、三人を見渡す。

「……ありがとう」

 その小さな一言には、たくさんの意味が込められていた。


 冬の空。灰色の雲が、重たく広がっていた。

 まだ何も終わっていない。ただ、静かに次の嵐を待っているだけだ。

――彼らの物語は、まだ続いている。 

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