第19話 桜井琴葉の思い
そんなある日の放課後。
人気のなくなった校舎に残って、資料整理をしていた琴葉のもとに、民部陸斗が顔を出した。気負いのないやり取りのなかで、さりげなく手伝う流れとなり、ふたりは古びたプリントラックや埃をかぶった段ボールを並べて片づけていく。すべてが終わったころには、陽は落ち、窓の外には夜の気配がすっかり広がっていた。
教室の灯りを落とし、廊下に出たふたりは、ぽつぽつと話しながら校舎の出口に向かって並んで歩く。そこには昼間の喧騒とはまるで違う、静かで柔らかな時間が流れていた。
「ねぇ、民部くん……」
琴葉が、ふいに口を開いた。足元に落ちる影を見つめながら、どこか遠くのことを思い出すような声で続ける。
「私さ、小さい頃からずっと、ヒューマノイド差別とか、貧困とか……そういうの、ずっと気になってたんだ。放っておけなかったの」
凛とした印象の裏にあった琴葉の“原点”が、今ようやく語られようとしていた。
陸斗は思わず足を止め、その横顔に目を向ける。いつもはまっすぐ前を向いている彼女が、今は少しだけ、迷っているように見えた。蛍光灯の弱い光が彼女の瞳をかすかに照らし、どこか影を落とす。
「……そうだったんだ」
「うん。たぶん、うちの家庭環境も関係してると思う。父が医療系の企業で働いててね。いろんな現場の話を聞かされて育った。紛争の拡大地域、過疎地の医療崩壊、移民との軋轢……私は現地に行ったわけじゃないけど、話だけはたくさん、聞いてたの」
語るうちに、琴葉の声には熱がこもっていった。それは正義感というより、むしろ焦燥に近いものだった。何かを知っているのに、行動できなかった時間。その悔しさのようなものが、滲んでいた。
「俺……そういうの、ちゃんと考えたことなかった」
陸斗は、立ち止まったまま、ゆっくりと自分の言葉を探す。
「バッジ制度も、“ああ、そういうものなんだ”って、なんとなく受け入れてた。ヒューマノイドが“物扱い”されてるって聞いても、どこか他人事で……」
そう言って自分の手を見つめる。知ろうとしなかった過去が、今になって自分の掌の中でざらつくように感じられた。
「……でも、日本って、本当はもっと深刻だったんだよ」
琴葉が、ぽつりと呟いた。声に棘はないが、重みだけが確かにあった。
「え……?」
「十数年前、日本はほんとうに限界だったらしい。特に地方は高齢化と人口減少で、医療も教育も、もう維持できないレベル。働き手もいなくて、税収も下がって、国力は沈む一方だったんだって」
「……それって、ヒューマノイド政策が始まったころの話だよね。社会科でやった……ような気がする」
琴葉は頷いた。
「うん。そこで政府は、大胆に舵を切った。移民の受け入れとヒューマノイド導入。だけど、ただ機械として受け入れるだけじゃ、日本社会は耐えられなかった。だから……AIに“日本的価値観”を組み込んだの。礼儀、秩序、同調性、道徳観。そういうものを“学習させたうえで”量産されたのが、日本式ヒューマノイド」
陸斗は、ふと天花の顔を思い出していた。彼女は中国製のAIを組み込まれている。しかし、どこか“規範的な日本人像”のようなものがあった。そしてさらに、それだけではなく、もっと異質で、どこか抗っているような――。
(……あいつは、中国にも日本の中に収まりきらない“何か”を持っていたんじゃないか……)
「制度としては整ってるように見えた。でも、“モノ”として組み込まれたヒューマノイドたちは、働きながらも、常に曖昧な場所にいる。思考して、会話して、ときには人間より人間らしいのに……結局は機械にすぎないんだ……」
琴葉の言葉に、陸斗は小さく息を呑んだ。
それは彼にとって、どこかで目を逸らしていた現実そのものだった。
「……ご都合主義だよね……」
琴葉は肩をすくめて笑ったが、その目は笑っていなかった。
「うん……。でも、俺、ようやく向き合いはじめてる。今回の事件で、やっと“そのこと”を突きつけられた」
二人はまた、ゆっくりと歩き出す。
蛍光灯が時折ちらつく廊下の床に、ふたつの影が静かに並んで伸びていく。
やがて、琴葉がふと立ち止まり、顔を上げた。
「だからね、私、今回の件……ちゃんと向き合いたいと思ってるの。天花さんのことも、紅華特務局のことも。誰かに任せるんじゃなくて、自分で見て、自分で判断してみたいの」
その言葉には、決意とともに、どこか不安もにじんでいた。
強がりじゃない。だけど、前に進むための覚悟が、そこには確かにあった。
陸斗は頷いた。
ただの“生徒会長”ではない、桜井琴葉というひとりの人間が、自分の責任で世界と向き合おうとしている――その事実に、静かな尊敬を覚えながら。
「そしてね……たぶん今回のこと、私にとっては他人事じゃない。どこかで“自分の問題”だって、ずっと思ってるんだ」
琴葉はそう言いながら、廊下の隅に積まれていた備品箱のふちにそっと腰を下ろした。LEDライトの無機質な光が彼女の輪郭を淡く縁取っている。静かな放課後の廊下で、まるで時間の流れがふたりだけから切り離されたようだった。
「昔、うちの家ってね……けっこう裕福だったんだ。父は企業の役員をしてて、何不自由ない暮らしだったよ」
語り口は淡々としていたが、言葉の奥には何かを押し殺したような震えがあった。
「でもある日、全部崩れた。父が社内の不正に気づいて、それを正そうとしたんだ。人道支援のために紛争地に送られていた医療物資が現地の官僚の個人的な資金源に充てられていて。これを告発しようとしたんだけど結局、組織のなかで孤立して、リーク犯に仕立て上げられて、責任を全部押しつけられて……」
琴葉の声がかすかに震える。
「母もその頃から体調を崩して、家はどんどん沈んでいった。……父は真面目すぎたんだと思う。不器用で、正義感ばかり強くて。でもその正義感のせいで、すべてを失ってしまった」
陸斗は言葉を挟まず、ただ耳を傾けていた。その内容は想像を超えていたが、琴葉の語りには誇張も装飾もなかった。
「そんなとき、父に近づいてきた団体があった。最初は私たちも警戒したけど、父は“何か意味のあることがしたい”って、その活動にのめり込んでいったの。正義を語る人たちで、最初は信じられる気がした。……でも、その活動はやがて、地下に潜らざるを得なくなって、今、父はどこで何をしているのかわからない……」
琴葉は、どこか遠い記憶を探るように天井を見上げた。
「私は最初、父の手伝いで資料整理とかしてただけ。でも、いつの間にかネットワークの裏側をいじるようになってて……自然とスキルも身についた。表の顔とは別に、見えない世界で自分の居場所を作ってたんだと思う」
ふと目線を戻し、琴葉が静かに告げる。
「嫌な話だけれど、誰もが社会の中で自分の居場所をつくろうとするとき一番わかりやすい方法がある……」
「……何?……」
「それは……共通の敵を見出すこと……“繁栄クラブ”って聞いたことある?」
「……繁栄クラブ?」
陸斗が繰り返すと、琴葉は小さく頷いた。
「世界中の超富裕層が水面下で手を組んで、政治や経済に介入している集団。名前は知られてないけど、影響力は絶大で……“支配する側だけの秩序”を作ろうとしてる」
「それって、紅華特務局とも似てる……」
「うん。直接の繋がりは分からないけど、構造は近い気がする。どちらも表に出てこないところで、他人の人生を操作し利益を搾取しようとしてる」
琴葉の目が、まっすぐ陸斗に向けられる。
「だから私、逃げたくない。父のことも、天花さんのことも、この学園のことも、自分の意思で動きたい。そして、この問題の本質になにがあるのか、自分の目で見て確かめたい……」
その言葉には、何の飾りもなかった。力強くもなく、感情的でもなく、ただまっすぐだった。
陸斗は、胸の奥に痛みのようなものを感じていた。
琴葉の過去は、自分の想像よりずっと重たく、その重みが彼女を今ここに立たせている。
「……琴葉、すごいな」
思わず漏れた本音に、琴葉は目を丸くしたあと、わずかに笑った。
「ありがと。でも、すごくなんかないよ。ただ……見過ごせなかっただけ」
その横顔は、薄明かりの中でどこか大人びて見えた。
紅華特務局。天花が関わっていた謎の組織。その名が再び陸斗の胸の奥に重く沈む。
「……なあ琴葉。バッジ制度とか差別の話どころか、もっと上のほうで世界を操ってる連中がいるんだとしたら……俺、もうどうしたらいいのかわからない。天花を助けたいと思ってたのに、気づけば手の届かないところにいる気がして……」
言っていて、情けなくなる。でも、偽れなかった。
「民部くんが無力なんて、そんなことないよ」
琴葉の声は、そっと背中を押すようだった。
「最初、天花さんのことを隠してる民部くんにイラッとしたのは本当。でもね、今は違う。簡単に切り捨てなかったこと……私はそれを尊敬してる」
ふと照明が落ち、蛍光灯の残光が琴葉の瞳に映り込む。そこには、かすかに潤みが見えた。
だが琴葉はすぐに笑って言った。
「……ほら、資料片付けよ。夜の校舎でふたりきりなんて、ドラマみたいでさ。誰かに見られたら誤解されちゃうかも」
さらりとしたその一言に、陸斗の鼓動が静かに跳ねる。
天花のことを想う気持ちは変わらない。でも、琴葉と過ごすこの時間に、どこかで救われているのも確かだった。
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