第15話 人とヒューマノイドの狭間で
ある日、天花はそっと言った。
「……私の体、見てほしいところがあるの」
彼女は自分の長い髪をかき上げ──隠れていた頭皮を見せた。
そこには、小さな円形の痕跡が残っていた。
十センチほどの円をくり抜いたような形。
「ここから、脳にAI回路を埋め込まれたの。……手術が終わって目覚めてから、痛かったよ。すごく」
天花は淡々と語ったが、その声には痛みが滲んでいた。
陸斗は、言葉にならない思いで、ただ彼女の傷跡を見つめた。
(こんな……こんなことを、誰が……)
胸の奥から、怒りとも悲しみともつかない感情がこみ上げてくる。
天花は微笑んだ。
「でも、いまはちゃんと……人として笑えるから」
その笑顔は、どこまでも弱く、しかし、その意思はどこまでも強かった。
陸斗は、そっと天花の頭を撫でた。
──風鈴が、窓辺で小さく鳴った。
外の風は熱く、重く、焼けるようだったが、
それでも、この狭い部屋には、微かな涼しさが宿っていた。
セミの声が遠ざかり、夕立ちの気配が空気に混じる夏の盛りが過ぎたころ、天花からの連絡は目に見えて減った。メッセージアプリの通知は静まり返り、既読がついても半日後に素っ気ないスタンプが返ってくるだけ。
──つい先日まで、毎晩のように送りあった長文の感想や他愛ない絵文字の嵐は何だったんだろう。
不安をやり過ごすために陸斗は補講や公募ボランティアなど予定を詰め込んだが、帰宅してスマホを確認するたび胸の奥が冷たく沈んだ。
三度目の「ごめん、外せない用事があって」という返信の後で、陸斗はとうとう立ち止まった。〈断られている〉ではなく〈避けられている〉。その気配が、湿気を孕んだ夜風のように肌へまとわりつく。
嫌な予感に背を押されるまま、ある土曜の午後、陸斗は新宿のマンションのエントランスに立っていた。天花の部屋へ繋がるインターフォンに呼び出しをかけるが応答はない。
エレベーターの閉じかける扉を手で押さえ、胸の鼓動を数えながら、長い廊下を歩くほど、足音がやけに響く。
ドアはオートロックのはずだったが、施錠されていないようで軽く押しただけで開いた。
リビングのカーテンは半分だけ閉ざされ、午後の日差しが薄い斜光となって床を染めている。エアコンは切れているらしく、部屋の中は蒸し暑い。しかしその中心で天花は震えるほど蒼白だった。
窓辺に立ち、都会のビル群を遠いもののように見下ろす彼女の背中は、硝子細工のように頼りなく、それでいて気安く触れてはいけない張りつめた気配を放つ。
「……特務局が、動き始めたかもしれない」
振り向いた瞬間の声は掠れ、しかし意志は揺れていなかった。
紅華特務局――彼女を“造った”闇の温床。人と機械の境界を踏み越え、ヒューマノイドとバイオノイドの影で人体実験やAI兵器開発を進める禁忌の組織。その名を口にするたび、天花はまるで冷たい霧に包まれるように表情を閉ざす。
陸斗は一歩踏み込みかけて、無意識に拳を握る。怒りとも恐怖ともつかない感情が波打ち、「助けたい」という言葉が喉まで上がる。だが天花は静かに首を振った。
「ごめん、陸斗。……今は、近づかないで」
小さな手が彼の胸に触れ、柔らかな力で押し返す。その手の温度は確かに人のものなのに、指先は微かに震えている。
「向こうがこの動きを探知したら、あなたまで巻き込む。そうなれば——」
言葉は途中で切れたが、瞳の奥に炎のような決意が灯る。
沈黙の中、エアコンの止まった室内で風のないカーテンが揺れた。
やがて天花は背を向け、書斎机の引き出しから小さな紙片を取り出す。
「……暗証コードを覚えていてほしい」
天花はその紙片に、この時代には珍しくなった小さな鉛筆で
#Hurin_0728>Windring_Fleur! と書き
「わたしに何かあったら、このコードを使うことがあるから。忘れないで」
それだけ言うとそれを小さく破り捨て、帰るように視線で促す。
その姿が、陸斗の胸に重く落ちる。二人で拾い集めた夏の光景が、透明な壁の向こうに隔離されていく気がした。
「……それじゃあ、帰るよ。でも、絶対に一人で抱え込まないって約束してくれ」
細い沈黙。天花は視線を伏せたまま、唇だけで「ありがとう」と動かした。
別れ際、ほんの一瞬だけ指先が触れる。かつて何度も手をつないだあの温度が、今は相手を守るための境界線に変わっている。
廊下に出ると、ドアの電子ロックが静かに閉じる音がした。
結局、夏休みに天花と会ったのは、これが最後だった――
蝉の声がフェードアウトした夜空の下、陸斗は暗証コードの文字列をそっとそらんじていた。
夏休みが終わり、二学期が始まった。クラスメイトたちは久々の再会を喜び合い、にぎやかに近況を報告し合っている。民部陸斗の目は自然と神崎天花を探していた。彼女はいつもの席に座っていたが、その姿はどこか遠く、冷たい空気をまとっているように見えた。
朝のホームルームが終わるや否や、天花は誰とも目を合わせずに教室を出ていく。その様子に、クラスメイトたちは戸惑いを隠せない。
「おいおい、キャンプの時の神崎と全然違くね? なんかあったのか?」
「もしかして、夏休みに彼氏でもできたんじゃ……って、そういえば陸斗とイチャついてなかった?」
級友らがひやかし交じりに問いかけてくるが、陸斗は曖昧に笑ってごまかすしかなかった。しかし、内心は大きく動揺している。あの天花が、まるで彼を拒絶しているように思えてならないのだ。
それだけならまだしも、学内では小さな事件が続発していた。本来、人間の間の問題を和らげるために、AIサポートやバッジ制で区別されたヒューマノイド生徒たちが、なぜか些細な言い合いを起こしたり、クラスメイトに突っかかったりしているらしい。
たとえば、ある放課後には「明日提出のプリント」についてクラスのSNSで雑談していたら、ヒューマノイドが急に「締め切りを守る人がいくら努力しても、守れない“人間”がいるせいで結局、次のステップに進めないことがよくある」と煽るような文面を書き込んできた。いつもは冷静で淡々と会話するだけに、生徒たちは対応に困惑。システムの不適切表現チェックすら機能しておらず、「あれ? どうしちゃったの?」と戸惑うばかり。
また別の日には、奨学金ポスターの前で、ヒューマノイド男子が「こんなの富裕層の偽善だ」とつぶやき、経済格差を指摘するような言葉を口にしていたという。そばにいた生徒がさりげなく声をかけると、彼は低い調子で「所詮、俺たちはバッジで差別されてるんだから……」と話を広げそうになり、危うく衝突が起きかけたらしい。表面上は大きな事件には至らないものの、クラス中にじわじわと嫌な雰囲気が広がっているのだ。
(どうして……ヒューマノイドって、こういう衝突を減らす役なのに。何かがおかしい……しかも安全ブレーカーが働かない小さな摩擦をわざと起こしているようにも見える)
陸斗も周囲の変化を感じつつ、天花の態度が急に冷たくなったことに気を取られ、全体の流れを掴めずにいた。クラスメイトから「陸斗、夏に神崎と何かあったんだろ?」としつこく聞かれても、うまく説明できずに困ってしまう。
そんなとき、翔平が横から「おまえ、ヘタレすぎじゃね?やましいことがないならもっと堂々としていればいいだろ……」と小声で毒づいてきて、「うるせえ」と返しつつも、自分の不甲斐なさを痛感する。
生徒会室でも、少し大人びた空気を持つ桜井琴葉が、「なんだか最近、みんな調子悪くない?」と溜息をこぼしていた。AIサポートによる解決策や、ヒューマノイドの調整で丸く収まるはずのトラブルが、なぜか、どれもうまく機能していないのだ。血みどろの事件などは起きていないものの、空気全体が重苦しい。
陸斗は天花のことで頭がいっぱいだったが、いつかこのクラスで何かが起きるのではと、不安な胸騒ぎを覚え始める。
(天花もヒューマノイドだけど、彼女の問題はもっと別のところにある……。でも、なんで彼女は突然あんなふうに冷たく?)
心の中で問いかけても答えは出ず、夏休みのときの笑顔が陸斗の頭を離れない。いまや天花は、一学期の最初よりもさらに距離を置いているかのように見える。
そして陸斗は、この何とも言えない空気を抱えたまま、秋の風へと変わりつつある校舎に通い続ける。彼女に何があったのか、どうしてこんなに嫌な雰囲気が生まれているのか――まだこの時点では、全く想像もついていなかった。
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