第10話 新たな始まり

 キャンプでの大騒ぎがウソみたいに、静かな朝がやってきた。

 民部陸斗はまぶたの重さと格闘しながら、ようやく布団の上で上体を起こす。

 つい数日前まで湖畔ではしゃぎ回り、夜には神崎天花からの衝撃告白──。

 だが今、夏休み独特の涼しげな空気が部屋中に漂い、現実はやけに落ち着いて見えた。まるで騒がしさがどこかに押し流されたようだった。

(……天花の「後日、ちゃんと話したい」って、結局あれ、なんだったんだっけ)

 思い返すたび、胸の中では“甘い期待”と“得体の知れない違和感”が交互に波を打つ。

 溺れかけているような浮遊感が全身を包み、思考がうまくまとまらない。

「……今日って、もしかして会う予定だったっけ?」

 寝ぼけ半分に口に出してみるが、返事などあるはずもない。

 天花の「また話そう」という言葉が、ただの挨拶だったのか、あるいは何か意味のある約束だったのか……思い出そうとするたびに、心がそわそわして落ち着かなくなる。

「天花と付き合う……? いやいや、そんな都合のいい話があるわけ……」なのに、気がつけば布団の上で身悶えしてしまう。

 彼女の整った顔立ちや、ふと見せる優しさ、誰にも流されない意志の強さが浮かび上がり、そのたびに「天花って、やっぱり最高だよな」と心の中でうっかりニヤける。

 でも同時に「夢だったのかも」というありえない疑念が頭をもたげ、冷静さを奪っていく。


 夏休みも本格的に始まった。

 運動部の連中は合宿や練習で忙しそうなのに、陸斗には予定らしい予定がひとつもない。

「ヒマだ……」ぽつりと嘯いた言葉とは裏腹に、頭の中は天花のことでいっぱいだった。

あの夜の情景が何度も何度も脳内でリフレインされる。

 警戒と浮かれがせめぎ合う中、グループチャットではキャンプの写真や思い出話が飛び交っていた。

 しかし──天花からの投稿はなかった。未読のまま、音沙汰がない。

(どうして連絡がないんだよ……)

 スマホを見つめながら仰向けに倒れる。

 彼女の笑顔、体育祭での鮮やかなプレー、何かを隠すような沈黙──

 普通の高校生とはどこか違う、でも確かに惹かれてしまう存在感。

 思い返すたびに自分の気持ちは“恋”という枠を少しずつはみ出していく。

(堂々とあんなふうに言ってくれたんだから……信じていい、よな?)

 だが、それは妄想に近かった。布団の上をゴロゴロ転がりながら、顔を覆ったりニヤけたり。気づけば、どこか初恋の頃のような甘酸っぱさに身を焦がしている。


 そんなとき、スマホが震えた。

──「今から会える?」

 見慣れたアイコンと、短いメッセージ。スタンプも絵文字もない、淡白な文面。なのに、心臓はドクンと跳ね上がった。

(マジで? 本当に……)


 返信を済ませ、表示された地図を確認する。指定されたのは、新宿の裏通り。以前迷い込んだ、あの雑居ビル群だった。

(なんでまた、あんな場所……)

 さっきまでの夢見心地が、一気に現実へと引き戻される。カフェデートでも映画館でもなく、むしろ近づいてはいけないような空気をまとった区域。

(まさか、また“あの感じ”に巻き込まれるのか?)

 身体がかすかに震えた。けれど、もう足は止まらない。

 たとえそこに待っているのが“青春の続き”ではなく、“何か別のもの”だったとしても──行くしかない。

 それが、神崎天花と向き合うということなのだ。電車に揺られながら、窓に映る自分を見つめる。

(俺、本当に……天花のこと、もっと知りたいんだ)

 単なる憧れじゃない。初恋のときめきでもない。

 もっと根本的な、存在への関心。そこにあるものすべてを見届けたいという、強い欲求。新宿駅に着くと、近未来的なホログラム広告と喧噪に包まれる。人混み、AIの音声案内、巨大スクリーンに映る商品プロモーション──

 湖畔のキャンプ場の自然さとは真逆の世界。

 あの夜に感じた、ぬくもりや安らぎは、どこにもなかった。雑踏を抜け、指定されたエリアへ向かう。再開発の途中で放置されたような、未完成のまま時が止まった街。仮設の屋台風フードスタンド、塗装の剥げた壁、看板だけが取り残されたビル……

 すべてが「都市の隙間」そのものだった。そして、ビルの隙間に立っていたのは──天花だった。

 真っ白な半袖シャツに、紺のスカート。

 制服姿のまま、暑さにも動じず、涼しい顔で手を振る。

(どうして……制服なんだ?)

 思わず疑問が胸をよぎるが、その理由は口にできなかった。

 それよりも、彼女の背中が「こっち」と言わんばかりに動き出す。

 陸斗の袖をほんの少しだけ引く指先。そのさりげない仕草に、あの夜の名残が重なるようで──不意に胸が締めつけられた。

 コンクリート打ちっぱなしの壁。剥がれたポスター。ちらつくホログラム。人工的な光の下で、天花の影だけが妙にくっきりと伸びていた。

(これは……あの夜とは違う。もっと深い場所に、引き込まれていく感覚だ)

 それでも、足を止めることはできなかった。焚き火の記憶が雑踏にかき消されそうになっても、この先に彼女がいると信じる限り、前に進むしかない。

 神崎天花という存在に、民部陸斗はもう──抗えなかった。

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