第9話 告白
夜の湖畔は、静けさとにぎやかさが入り混じる不思議な空気に包まれていた。夕暮れが日中の喧騒を洗い流し、そこへ夜の笑い声がゆっくり染み込んでいくような感覚。
キャンプファイヤーに火が灯されると、勢いよく燃え上がる炎が暗い空を照らし、星々と天の川がふと浮かび上がる。普段なら「ダサい」と敬遠されがちな歌やゲーム、ちょっとした肝試しも、ここでは妙に楽しく感じられる。
そんな期待と興奮が交錯する夜の中心に、神崎天花がいた。いつもより少し違う装い――シンプルなデザインの薄手のワンピース――を纏い、どこかぎこちなく陸斗のそばに歩み寄ってくる。
「えへへ……こんなの、どうかな?」
炎の揺らめきを背に、彼女は照れ混じりの微笑みを浮かべる。清楚な雰囲気に“わかりやすい意識”が足されたせいか、普段のクールな印象とはまるで違う。どこか、小動物のような無防備さが漂っていて、それでも媚びるような仕草にはならず、彼女らしい素直なぎこちなさがそのまま愛らしく映る。
「え、あ、いや……すごく似合ってると思う」
これって、天花からアプローチされてるってことだよな……陸斗の胸は高鳴る一方。だけど、周りから見ると天花の振る舞いは少し空回りしているようにも見える。それでも、そのちぐはぐなギャップが可愛らしさを増幅させているから困る。
(普段の天花とぜんぜん違う……めちゃくちゃドキドキする……!)
実際、クラスメイトの一部は「おー、あれ放っておいていいんだよな?」なんて明らかに冷やかし半分で囁くものの、直接、間に入って邪魔する者はいない。
彼らには彼らの“ルールと目的”があるようで、あちこちで小さな情報戦が始まっている。天花に片想い中の男子数人は複雑そうな表情を浮かべているが、陸斗が敗退するのを指をくわえて待っている様子だ。
キャンプファイヤーの炎がパチパチと燃え、ワンピース姿の天花が照れるように頬を染める。その横顔は普段の落ち着いたムードとは正反対で、見ているだけで陸斗の心を強烈に揺さぶる。
(なんだ、この感じ……もしかして、思いが通じちゃうかもしれないってくらい……)
そんな期待が夜の闇と炎の明かりのあいだを行ったり来たりしながら、どんどん膨らんでいく。普段はクールな天花が見せる隙と、陸斗の言葉にならない高揚感。だがそれは、まだ確信ではなかった。あくまで“かもしれない”という希望の形をした不安と、わずかに残る自信のなさが入り混じる、揺れの中にあった。
キャンプファイヤーを囲んだクラスメイトたちも、一通り盛り上がって落ち着き始めた頃。
ふいに、天花が陸斗の視界の端から現れ、そっと彼の前に立った。目が合った瞬間、彼女はほんの一瞬だけ視線を泳がせ、それから意を決したように、まっすぐ陸斗の目を見つめてくる。そっと身を寄せて、静かに小さく頷くだけ。その無言の合図が、言葉以上に気持ちを伝えていた。
「陸斗……ちょっといい?」
「え、うん……?」
ふたりきりになったわけじゃない。でも、誰も邪魔しないような不思議な空気がそこにあった。
夜空に舞う火の粉と、燃え上がる炎の照り返しが、天花と陸斗の頬を赤く染める。
沈黙の中、天花がぽつりと口を開いた。
「陸斗って、いつも優しくしてくれるよね。それに……あの、新宿まで……探しに来てくれたのって、どういうこと……だったの?」
思わぬ言葉に、陸斗の胸が一瞬跳ねる。(新宿……覚えてたんだ)
あの夜の記憶が蘇るが、今目の前にいる天花の姿が、その印象をまるで塗り替えていく。焚き火の揺らぎの中で、彼女はただ真っ直ぐに、答えを待っていた。
「それは……天花が気になってたから……」
口にした瞬間、陸斗の中で何かが決定的に変わった。もうごまかせない、これが本心だ。
天花の瞳がぱちりと瞬き、ふわりと笑みが浮かぶ。それは、少し照れていて、でもどこか嬉しそうで。
陸斗の鼓動が跳ね上がる。不安と期待が交錯していた心の奥に、今、確かな手ごたえが灯った。
小さく揺れる焚き火の音と、ふたりの鼓動だけが夜に溶けていく。
一拍、二拍。まるで時間ごと、天花の次の言葉を待っていた。
そして、もう一度だけ陸斗の目を見上げる。
短くも真っ直ぐなその視線に、覚悟のようなものが宿っていた。まるで別世界に迷い込んだように幻想的で、陸斗の胸は嫌でも高鳴った。
(まさか、この雰囲気……いや、そんなわけ……)
でも——さっきの視線、声の震え、そしてあの表情。すべてを思い返すうちに、陸斗の中で何かが確信に変わっていくのを感じた。これは、間違いじゃない。妄想でも勘違いでもない。天花は、俺に——。
天花は周囲の視線を避けるようにうつむくと、深く息を吸い込み、まるで心の奥から勇気を振り絞るように口を開いた。火の明かりに合わせて、長いまつ毛と黒髪が微かに震えている。
「好きです。……私を……陸斗の彼女にしてください……」
あまりにもストレートな言葉。あまりにも突然すぎて、陸斗の頭が真っ白になる。
(嘘……? ほんとに……?)
苦しいくらいに胸がドキドキする。焚き火の熱が直接伝わるわけでもないのに、体の奥で何かが燃え上がるような感覚だ。
天花はさらに小さく震えながらようやく顔を上げる。その瞳は今まで見たことがないほど切実な色合いを帯びていた。
「え……あ、う、うん……」
彼女の言葉に対して、陸斗の返事は戸惑いそのもの。でも、その内側では(こんな俺にも“彼女”ができるなんて?)という喜びが爆発していた。新宿以来ずっと心を揺さぶり続けた“気になる”という感情が、この一瞬で高揚感に変わり、息苦しいほどに陸斗の胸を満たしていく。ほんの数秒かもしれない。でも、その間、燃え盛る炎の音すら遠のいたように感じた。
天花が見つめる瞳は、普段のクールさとはかけ離れた“少女”そのもの。震える指先が緊張を物語っている。(こんな天花、初めて見る……)
火の粉が一つ、二つ、ふたりの間をかすめて夜風に乗って散っていく。周囲で笑いさざめくクラスメイトの声はあるのに、遠くの出来事みたいに感じる。まるでこの瞬間だけは、ふたりだけの小さな世界ができあがっているかのようだった。陸斗の胸の奥で、さらに大きなときめきが膨らむ。
(どうすれば……いや、決まってる。これは夢じゃなくて、ちゃんと現実なんだ……)
「……ありがとう。オレも……ずっと、気になってて……」
うまく声にならない陸斗の言葉。でも、その表情がすべてを語っていた。
今、陸斗という少年の人生は、確実にここから一歩踏み出そうとしている。
焚き火の炎がちょうど勢いを増すように揺れ、鮮やかな赤橙色の光がふたりを照らした。急展開なのに、不思議なくらい違和感はない。むしろ運命のように自然で、ほんのり甘い空気が漂い始める。夏の夜の星々までもが、ふたりを祝福するかのようにしんしんと輝いていた。
きっと、いつまでも——この光景だけは色褪せずに、ふたりの胸に灯り続けるようだった。
神崎天花からの衝撃的な告白にドキドキを隠しきれない民部陸斗。キャンプファイヤーの熱気がピークに達しかけたそのとき、意外な方向から声がかかった。
「神崎さん、今日はサポートありがと。でも、副委員長の陸斗は渡さないからね。委員長は、私なんだから……」
一瞬、強い風でも吹いたように空気が揺れる。割って入ったのは、息を切らしながら現れた桜井琴葉。しかもわざと意地悪そうに微笑んでみせる。
「それに民部くん、あんまり軽率なのはどうかな?まだ、公式行事の最中なんだから……」
一見遠回しだけど、“私の大事なパートナーを奪わないで”という牽制が透けて見えて、陸斗は驚きで言葉が出ない。天花も「取るとかじゃないけど……私、彼女として本気なんだ」と真剣に返すから、琴葉の驚きの顔とともに、なんともいえない緊張した空気が漂い始める。
そこへ見計らったように西野翔平がひょっこり割って入ってきた。
「うわー、合コン席替えのタイムですか?でも委員長、もう、完全にカップル成立しちゃってますよー?」
軽い茶化しなのか助け舟なのか、際どい三角関係をコミカルに流そうとしているようにも見える。
続いて山城隼人がニヤッと笑いつつ近寄ってくる。
「ここまで堂々とイチャイチャしてくれたら、そりゃみんな意識せざるを得ないわな。ドン引きだわ!」
大げさに言い放つ隼人に、陸斗は「イチャついてたわけじゃ……」と反論しかけるけど、うまく言えずにしどろもどろ。
周りのクラスメイトも「あーあ、なんか始まっちゃったな」「ちぇっ!アホらしくて、やってらんねーぜ!」なんて、半ば笑いながら遠巻きに眺めている。
「もう、いいから!」
ぷいっと顔を背ける琴葉に対し、天花は「陸斗を困らせたくないんだけど……」とぽそりと呟き火に油を注ぐ。ふたりが微妙に睨み合うようにも見えるけれど、どこかコミカルで、本気の修羅場にはなりそうもない。冗談と戸惑いが混ざったこの空気が、キャンプファイヤーのクライマックスを賑やかな渦に変えていった。
ほんの数分のできごとでキャンプファイヤーの雰囲気は一変したが、みんなが笑っているせいか深刻さはすぐにかき消されていく。陸斗もドキドキしながら「天花との会話、結局どうなったんだ……」と整理つかないまま、周囲に引き流される形だ。
でも、“学園生活の枠を超えた新しい展開”が動き出したようにも感じられた。
焚き火の勢いが少し落ち始め、クラスメイトたちはそれぞれのテントやコテージへ散っていく。
「キャンプが終わったら、デートしようねー」
天花がさりげなく手を振って別れるのは、公然のカップル宣言ともとれるし、「キャンプ中はおとなしくしてるよ」という暗黙の約束にも聞こえる。
さっきの騒ぎが嘘のように、夜のキャンプ場はまた静まり返っていく。でも、陸斗や天花、琴葉、そして隼人や翔平が抱える思いは、まだ熱を帯びて胸の中に残っている。
その熱さが、既に“日常”へ続く新たな入り口になりはじめている──そんな予感だけを残しながら。
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