第8話 キャンプ、そして青春イベント
夏休みに突入し、一気に広がる開放的な雰囲気。
深い山あいに隠れた静かな湖畔が、いま一行の高校生たちを迎えていた。バスはくねくねした峠道を抜け、ようやく到着。バスを降りた生徒たちは、四方を樹木に囲まれたキャンプ場を見て歓声を上げる。まるで秘境のような場所だからこそ、そこに至るまでの準備は相当な苦労があったはず。アウトドアに不慣れな生徒も少なくないが、それ以上にテンションは最高潮だ。
「うわー、すごい……ほんとに森の中って感じ」
「仮設シャワーもあるし、全然イケるじゃん!」
生徒会メンバーの呼びかけに応じ、クラスメイトたちは手際よく道具を運び始める。笑い声と弾ける水音が、湖畔にカラフルに広がっていく。
かつてキャンプ自体に懐疑的だった生徒たちも、整備されたテントサイトや清潔な炊事場を前にして、「思ったより快適じゃん」「意外と楽しめそう」と顔をほころばせる。桜井琴葉を中心とした生徒会の努力が、この快適な空間を実現したのだ。
湖水浴場の近くで荷物を整理していた民部陸斗は、ふと気配を感じて振り向いた。そこには、露出控えめの紺色ワンピース水着に身を包んだ神崎天花の姿があった。普段のクールな印象とはかけ離れた、小動物のように落ち着かない様子。
「これ……変じゃないかな?」
不安そうに尋ねる天花に、陸斗は言葉を失う。地味なデザインなのに、艶やかな黒髪との組み合わせがやたらと映えていて、まとっている空気がまるで違う。
「いや、すごく……かわいいと思う。全然変じゃない」
「本当?なんか想像と違ってて……」
天花は頬を赤らめ、耳までほんのり染めている。
その様子に見とれていると、西野翔平たちがにやにやしながら近づいてきた。
「おやおや~?イイ感じじゃん?」
「民部、初デートか?」
冷やかしに天花も陸斗もたじろぐが、翔平はおかまいなしに二人に湖水をバシャッとかけた。
「きゃっ!」
「冷たっ!」
水を浴びた天花は跳ね、陸斗も慌ててかばう。そこへクラスメイトが雪崩れ込み、水かけ合戦がスタートした。
「狙え狙えー!」
「きゃははっ、やめてー!」
天花は逃げる途中、陸斗の腕をぎゅっと掴む。びしょ濡れになった肌同士が触れ合って、二人は一瞬、硬直した。
(……ヤバい、近すぎる)
陸斗の心臓が跳ねる。天花も顔を伏せた。
でも、その空気も水しぶきの嵐にかき消される。笑い声ときらめく水音に包まれ、クラス全体が一つの渦になっていた。夏の太陽がまぶしくて、湖の水は冷たくて、声を上げて笑うクラスメイトがまぶしくて、そして今、一番まぶしいのは、目の前の天花だった。
冷静に振り返るなんてできない。ただ、このキラキラした瞬間にしがみついて、ずぶ濡れになりながらも笑い合いたい。胸の奥に満ちる熱がさらに広がっていく。
陸斗は息を切らしながらも、まるで別世界に迷い込んだような感覚に包まれていた。ドキドキ、ワクワク、そして少しの恥ずかしさ。水面の光が乱反射して、湖畔はさらに眩しくなる。ここにあるのは、まさに陸斗が待ち望んでいた青春そのものだった。
日が傾き始めた頃、湖畔にバーベキューの煙が立ちのぼる。
「班ごとに食材取りに来てー!」
桜井琴葉の声に、各所から元気な返事が返る。
表向きは琴葉が指揮を執っていたが、その裏では天花が驚異的な段取り力を発揮していた。包丁、炭、着火剤。すべての道具が整然と配置され、誰一人混乱することなく準備が進む。食材や備品の管理の基本はヒューマノイドが行っているが、それでも不測の事態に相手の欲するところを察して先読みする行動には限界があった。特に、キャンプのような非日常ではクラスメート毎の個別対応にはデータベースに限界がある。
琴葉は天花の様子に目を見張った。(……この子、本当にすごい)
「桜井さん、差し入れの焼きそば用の調味料、班ごとにまとめてあります」
「え、ありがとう……助かるよ。予定になかったからね……」
ただの段取りだけじゃない。天花は個々の性格や癖まで把握し、欲しいものを的確に差し出している。それがまるで、心の内側を読んでいるようで、琴葉は妙な警戒心を覚える。 (私……いなくても平気なんじゃ)
遠くでは山城隼人が、クラスメイトと談笑しながらも天花の様子を観察している。表情は穏やかでも、隠れた警戒心がにじんでいた。
一方、翔平は「肉焼くぞー!」と叫び、カメラ片手に記念写真を撮ってまわっている。その笑顔の奥にある真意は、まだ誰にも見えなかった。
「神崎、ありがとう。助かったよ」
陸斗がそっと声をかけると、天花は微笑んで「私こそ、うまくいってよかった」と返す。その瞳は静かに炎を宿しているようで、でもどこか凛としている。
(やっぱり、普通じゃないかもな……)
けれど今は、この雰囲気を壊したくない。焚き火の香り、夕焼けに染まる湖畔、笑い声に包まれた空間。それぞれの胸に、まだ形にならない思いが膨らんでいく。
キャンプの夜は、まだ始まったばかりだった。
そして、誰もがまだ気づいていなかった。この夜を境に、すべてが少しずつ動き出していたことに。
バーベキューが最高潮に盛り上がっていた頃、突如「誰か倒れた! 先生、来て!」という悲鳴が響いた。
クラスメイトたちが一気に静まり返る。すぐに引率の先生方が駆けつけると、藤井春希(ふじい はるき)が苦しそうに横たわっていた。顔は青白く、唇は乾き、皮膚には赤い斑点が浮かんでいる。
先生は慌ただしく携帯型センサーを取り出して藤井の呼吸や脈拍、皮膚電位反応を測定し、同時にタブレット端末でオンライン診療を開始した。ヒューマノイドの手によって採取された現地の環境センサーやキャンプでの食材記録も即座に医療ネットワークにアップロードされていく。
「アレルギー反応らしい?……しかし、初期の薬も効かない」
教師たちはそう呟きつつ、藤井が持参していたアレルギー用緊急治療剤を投与するが、効果は薄いようだった。
「どうしよう……」
いつもは冷静な琴葉も、不安そうに口元を押さえる。近くに病院はなく、搬送の手配にも時間がかかるこの場所では、迅速な判断が求められた。
「ダメだ!ドクターヘリを呼ぶか……」
一人の先生が呟く……夜間のドクターヘリ出動……それは、もはやキャンプの継続どころではない大事に至ることを示していた。
しかし、安全と健康には代えられない。琴葉も……腹を決めかけた、その時……
神崎天花がぽつりと囁いた。「この辺のキノコ胞子に反応しているのかも」
教師たちは「キノコ?」と顔を見合わせる。だが天花は藤井の皮膚症状と呼吸状態を一瞥し、空中に漂う微粒子の濃度に目を細めると、タブレット越しの医師に向かってこう言った。「この地域の特定種――ヒメツチダケの胞子濃度が高くなっていませんか? 湿った日が続いた後、急に天気が回復すると大量飛散することがあります」
ディスプレイの向こうで専門医が即座に反応する。「それはレアだが、可能性としては確かにあり得る。症状も符合する」
天花の指摘をもとに判断、処置が行われ、藤井はシャワーで全身を洗浄、エアーフィルターのついた緊急テントを室内に設営して清潔な寝具に横たわる。皮膚の赤みがゆっくりと引き、呼吸も安定し始めた。
「助かったよ、神崎。お前、すごいな!」
先生たちが安堵の表情で天花に感謝を伝える。だが彼女は小さく微笑みながら首を振った。
「偶然、知人に同じ症状の人がいたので……」
“偶然”
本当に──偶然なのか?
琴葉はその光景を見つめながら、無意識のうちに眉をひそめていた。
陸斗もまた、頭の奥で警鐘が鳴るのを感じていた。
(あの新宿の夜といい、今日といい……)
あまりにも冷静で的確すぎる判断。まるで医療関係者でもあるかのように、迷いのない言葉と動き。
(……やっぱり、何かおかしい……)
しかし今は、その疑念を表に出す空気ではなかった。安堵する仲間たち。そして何より、天花自身が無理に目立とうとはしていない。
やがて琴葉は会場に戻り、「みんな、大丈夫だから安心して」と笑顔で呼びかけた。周囲からも「よかった!」と歓声が上がる。むしろハプニングが一体感を高め、夜の焚き火イベントへの期待感が一層増したようだった。
山城隼人は、ひとり静かにその様子を見守っていた。表面上は楽しげにしているが、成り行きを観察するそのまなざしは、決して一介の高校生のようではない。
西野翔平は「よし、そろそろ花火タイムだな!」と声を上げ、使い捨てカメラを片手にあちこちを撮りまわっていた。
それぞれの想いを胸に秘め、キャンプの夜は、ようやく深まっていく。
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