第7話 夏の始まり
期末テストと体育祭を乗り越え、学校は瞬く間に夏休みモード。廊下には合宿の案内ポスター、職員室前にはボランティア募集の張り紙――誰もが水鉄砲のように予定を詰め込み、弾ける笑顔で行き先を叫んでいる。
陸斗と琴葉が企画したクラス行事「夏季宿泊研修」(通称キャンプ)も、いよいよ最終チェック段階だ。
教室の後ろ隅、模造紙で「研修相談コーナー」と手書きされた机を囲み、二人は連日、クラスメートの要望や不安を聞き取っては対応に追われていた。
「花火やるのは楽しみなんだけど……火薬の煙、ちょっと苦手かも」
「OK。風下に場所変えて、消煙タイプのにしとくね」
「食事当番のカレー、シーフードはNGな人いるんだって」
「アレルギーか。じゃあ今回は無難にチキンとポーク中心にしよう」
琴葉が冷静に全体調整を進める一方、陸斗は生徒から聞き取った情報を個別対応リストにどんどん書き加えていく。付箋、付箋、また付箋。やがて一冊のノートはカラフルな小さな紙片で分厚く膨らんだ。
細かな内容は、空き時間を使って青バッジのヒューマノイドに入力サポートを依頼していた。雑務を淡々と処理するヒューマノイドたちは、得意分野の一つであるデータベース構築において絶大な力を発揮し、苦手・配慮事項・備品手配の一覧表が見事に整えられていた。
キャンプの準備の段階になって、しばらく大人しかったヒューマノイドが本領を発揮してきた形だ。それでも、ヒューマノイドには汲み取れない“人間のわがまま”には、やはり人間が動く必要があった。
たとえば先日、ある女子がこっそり言ってきた。
「夜、女子だけで星を見に行きたいんだけど、先生に付き添い頼むのもちょっと気まずくて……」
そのとき陸斗はつい、
「俺が一緒に行こうか?」
と、余計な下心の入り混じった提案をしてしまい――隣の琴葉から容赦ない肘鉄を食らった。
「そういうのは女子で相談して決めるの。男子は出番なし」
「い、いや……安全面を考えてさ……」
ひそやかに釈明する陸斗の脳裏には、もちろんある特定の誰かの顔が浮かんでいた。
別のタイミングでは、献立を見た男子が文句を言い出した。
「うちの班、全員男子だし、家庭的な野菜カレーなんて地味すぎ。せめてカレーには肉を多めに入れて、スパイスもホットにしようぜ」
「しかも○○、にんじんだけは絶対ダメなんだってよ」
「それなら、野菜の分、全部肉でいいだろ、もう!」
盛り上がる男子の暴走を、陸斗が止めに入る。
「ちゃんと全体でバランス取るから、食事に関しては俺と琴葉に任せてくれ。スパイスとにんじんの件は別鍋対応にする」
「へえ~マジで?民部、けっこう気が利くな」
「……まあ、いろいろ考えてるからな」
“いろいろ”の中には、特別な期待も含まれていることは、うすうすは琴葉にも勘づかれていたようだ。
ある日、ある男子がノート越しにそっと打ち明けてきた。
「……できればさ、キャンプ中は下の名前で呼んでくれると助かる。名札も、そっちにしてほしい」
理由は語らなかったが、どこか切実さを含んだ目だった。琴葉が一瞬迷う中、陸斗はためらいなく頷いた。
「わかった。俺もこっちで変えておく」
そう言って深く詮索せず、すぐに名前表記のシートを修正しはじめた。
「呼ばれ方ってさ、意外と心に残るからな。名札くらい、気持ちよくいこう!」
別の放課後、今度は女子生徒が控えめに声をかけてきた。
「実は……持病があって、朝の山登りは無理かも。みんなには言ってないけど……」
見た目は元気そのもの。体育祭ではリレーのアンカーも務めていた。だからこそ、他人には言いにくいのだろう。
陸斗は首を横に振った。
「無理しないでいいよ。登山は希望制にしよう。別プログラムも用意しておく」
「でも……サボってると思われたら……」
「それなら、選べる形にすればいいだけだろ。登る・登らないじゃなくて、どう楽しむかってことで」
そう言って笑うと、女子の表情が少しほどけた。
翌日のキャンプ用連絡タイムラインには、「※登山は自由参加です。同時間帯にリラックス活動あり」と追加された注釈が記されていた。
次から次へ沸き上がる問題を解決しながら、夕方、教室に西陽が差し込む中、全ての「対応済」チェックが完了したとき、琴葉が笑顔でうなずいた。
「これで、全員が安心して行けるはず。陸斗すごい頑張ったね。感心したよ」
「ああ、ありがと、な」……そう言いながら、天花のことが気になって仕方ない。
そのとき、教室の掲示板に新しく貼られた正式な班分けリストに、陸斗はふと目を向ける。
一行ずつ指で追っていき――ある名前を見つけた。
神崎天花。
(……本当に来るんだ――!)
わずかに心臓のリズムが跳ねた。頬が熱くなるのを、風のせいにしておいた。
そういえば――ここ最近、天花の様子がどこか違う。
休み時間、ふと視線を上げると目が合う。彼女がペットボトルで喉を潤す仕草は、なぜか陸斗のタイミングと重なりがちだ。黒板を向く角度まで妙にシンクロしたり、陸斗が教室に入る瞬間にだけ、天花はわずかに表情を和らげる気配がある――それは恋する男子の思い込みと言われればそれまでだけれど、少なくとも避けられているわけではなさそうだ。
さらには、いつの間にかクラスメートと冗談を言い合い、写真アプリで流行りのフィルターを試してはしゃぐ姿さえ見かける。冷たく閉ざされていたはずの入口が、ゆっくり開いていくのを肌で感じた。
それでもアイコンタクトは一瞬で途切れ、その謎めいた瞳が何を映しているかまではわからない。
──あの夜の新宿。
──桜井琴葉が漏らした警告。
──隼人の意味深な沈黙。
思い出すたび、鼓動が高鳴る。恋と呼ぶにはまだ形がないけれど、無視できないざわめきが確かに増幅している。
夏休み初日。蝉時雨が降り注ぎ、人影の消えた校舎に陸斗はひとり戻ってきた。掲示板を確認し、行程表に赤チェックを入れる。
紙の上で整然と並ぶ名前たち。視線が天花の行を撫でた瞬間、額の汗がつっと落ちた。
玄関に出ると、むっとする熱風が一気に襲う。それでも足取りは軽い。グラウンド脇のヒマワリが風に揺れ、どこかでホイッスルがひとつ短く鳴った。
非日常のキャンプが、この“平和の皮”をひらりと吹き飛ばしてくれるかもしれない。
そんな予感が、熱気より確かな温度で胸を打った。
想像は脈拍を加速させ、額の汗より速く心を照らす。夏の始まりは蒸し暑く、そして少しだけ眩しかった。
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