第4話 すれ違いの街
眉間に皺を寄せ、じっと俺を見つめている。怒っている。けれど、どこか演技じみた“あきれ顔”にも見えた。
「……民部くん、ひどいよ。いきなり走っていっちゃうなんて」
「ご、ごめん。どうしても気になったことがあって……」
言い訳しながらも、なぜ天花がここにいたのかまったく答えが出ない。桜井はため息をつき、少しだけ表情を和らげる。
「もういいけど。とりあえず一緒に行こうね。旅行代理店、待ってるんだし」
「うん。本当にごめん」
素直に謝るしかない。結局、迷子の子犬みたいに桜井に連れ戻される形で、次の目的地へ向かうことになった。
(……それにしても、あの路地で迷ったはずなのに、いつの間にか桜井の前に戻ってきた。不思議だ。まるで視覚情報が脳内で都合よく再構築されたような……情報過剰の時代、疲労した脳が見せた幻覚か?)
旅行代理店は雑居ビルの二階にあるこじんまりした店だった。壁には空港やホテルのポスターが貼られ、数台の端末が並んでいる。年配の女性スタッフが、落ち着いた笑顔で迎えてくれた。
桜井は事前に情報サービスセンターで集めた資料を見せながら、具体的なプランについて質問している。店員さんも丁寧に応じてくれて、手数料もそこまで高くないらしい。
一方の俺は、さっきの“追いかけ騒動”で頭がいっぱいで、相槌を打つのが精一杯だ。
「へえ……そっか……」
それでも桜井は特に怪訝な顔もせず、時々こっちを振り返って「大丈夫?」と視線で問いかけてくる。そんなさりげない気遣いに、「この人、やっぱすごいな」と変なところで感心してしまう。
「じゃあ、正式な予約はクラスに相談してから決めますね」
「はい。いつでもご連絡くださいね」
店を出る頃、桜井は控えめに微笑んでいた。どうやら狙い通りの収穫があったようだ。それとは対照的に、俺は天花を見失ったモヤモヤが消えず、桜井にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
駅へ向かう帰り道。休日の人混みをのんびり歩いていると、桜井がふっと口を開く。
「……神崎さんのこと、そんなに気になる?」
「え? いや……」
「ふふ、実はクラスの何人かも気づいてるよ。陸斗、神崎さんのこと、ちょっと見すぎじゃない?って」
思わぬ指摘に言葉が出ない。自分がどう思ってるかなんて、うまく説明できない。ただあのミステリアスな雰囲気から目が離せないのは確かだ。
「それに、神崎さんって謎めいてる部分が多いから……深入りしすぎると、いろいろ面倒かもよ?」
桜井は淡々と言うわりに、その表情には何か含みがあるように見える。もしかして、過去に似たような場面を知っているのかもしれない。
「……わかった。忠告ありがとう」
素直にそう返すと、桜井は少しだけ口元をゆるめた。
駅が近づいたところで、桜井は「それじゃ、また来週からよろしくね」とひらりと手を振る。
怒ってるのかと思ったけど、そこまでしつこく責めたりしない。むしろ「しっかりしてよね」って感じの空気を醸し出している。
俺は立ち尽くして先ほどの出来事を思い返す。神崎天花らしき姿を追いかけて路地を駆け回り、見失い、挙げ句に桜井を放ったらかしにしてしまった。
どうにも釈然としないままだけど、桜井の余裕ある振る舞いに、「自分ももう少し大人にならないとな」と思わずにいられない。
人波に溶けていく桜井の背中を見送りながら、俺は改めて天花の姿を追う衝動とは違う、彼女への尊敬の気持ちに気づかされる。いつか、この違いがもっとはっきりわかる日が来るのかもしれない……そんな曖昧な予感を抱えながら、俺は帰路へと足を進めた。
翌日、日曜の朝。目覚めた俺の頭には、まだ昨日の光景が残っていた。
夢の中で、あの路地を再びたどっていた。黒髪の少女の背中を必死で追いかける、そんな夢だった。
(本当に、あれは神崎天花だったんだろうか……)
確証はない。でも、制服姿で、あの迷路のような通りをすり抜けていったあの後ろ姿は、俺の記憶に焼きついている。
前日は桜井琴葉と行動を共にするはずだったのに、俺は一人で夢のような路地を駆け抜けていた。そのことを思い出すと、情けなさと申し訳なさが交互に押し寄せてくる。
(……桜井には悪いことしたな。怒って当然だよな)
それでもあのとき、俺はあの影を追わずにはいられなかった。
思えば、あれは追跡なんかじゃない。ただ衝動に突き動かされて、反射のように駆け出していただけだ。
窓の外を見上げる。青白い日差しに照らされた東京の街が、ゆっくりと目を覚ましつつある。
天花のことを考えると、なぜか胸がざわつく。その理由が恋なのか、あるいは何か別のものなのか、まだうまく言葉にならない。──彼女の内側にある、誰も知らない“何か”を知りたいという欲望。それは恋とも探求ともつかない、得体の知れない感情だった。
きっと、この出会いが俺たちの生活を、少しずつ変えていく。
そんな気がしてならなかった。
日曜の午後、俺は電車を降りて新宿駅に立った。
(スマホのトレース機能、オンにしておけば……)
昨夜のことを悔やみながら歩き出す。セキュリティ保護への意識の高さが裏目に出た。トレースはオフ。あの不可解な“追跡ルート”はどこにも記録されていない。今頼れるのは、自分の曖昧な記憶と、断片的な景色の記憶だけだ。
新宿駅周辺は、地上と地下の空間が層のように重なり、商業ビルと古い飲食街が網目状に入り混じる。再開発の痕跡がそこかしこに残り、標識や案内板は増えすぎて、むしろ視覚ノイズとなっていた。地図アプリの案内は確かに正確だが、それが示す“現在地”は、果たして昨日と同じ座標なのだろうか──そう思わせるほど、周囲の風景には流動的な不確かさがある。
AIによって最適化されたインフォメーションのはずなのに、なぜか“迷い”が生じる。案内の論理が人間の感覚と乖離しているのか、それとも、人間側の思考がAIの設計に追いつけていないのか──。
(この街で迷うって、もしかして偶然じゃないのかも……)
頭のどこかでは神崎天花のことばかりが引っかかっていた。地図も看板も、どこか上の空で眺めていたのかもしれない。
高架下をくぐり、かつての路地を探そうと裏通りを歩いていると、ふと中華料理屋の前で立ち止まった。赤いビニールの暖簾がかかった古びた店の前で、白髪の老人がよろけそうになりながら、重そうな段ボールを運び入れようとしていた。
「手伝いましょうか?」
気づけば声をかけていた。老人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「すまんねえ」と笑い、奥へと案内する。狭い店内には、油と香辛料の混じった香りが漂っていた。厨房の一角に荷を置いて、「ありがとう」と割引券を握らされながら外へ出たとき、世界の歯車がわずかにズレたような感覚に襲われた。
方向が、わからない。
ついさっきまで来た道が、違う角度から切り取られたように見える。看板も舗装の割れ目も、“似ているけど少し違う”。まるで、よく似た別の街に差し替えられたかのようだった。
そんな奇妙な感覚を振り払うように歩き出した。
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