吉原の遊郭でぼんぼんが遊女を買う話

かめのこたろう

吉原の遊郭でぼんぼんが遊女を買う話


 こりゃ、若旦那。ようようのお越しで。



 藤次郎が馴染みの引き手茶屋へはいるとすぐに、若い衆の馴れ馴れしい声がかけられた。

 蕩尽な金遣いを知るがゆえの揶揄めいた尊敬と、身分立場を超えた顔見知りの気安さがそこにはあった。


 江戸市中にその名を知らぬ者はいない、呉服問屋の跡取り。

 幸い生まれながらにして才覚も十二分、何不自由ない暮らしを送っているいわゆるボンボンである。

 本来ならば店の帳簿に目を通し、番頭たちとともに商いの策を練るべき立場。

 だが、この太平の御代にはありがちな通りに、この男の興味の向き先は別のところにあった。


 どれだけ世間では「遊び人」と揶揄されようとも、どこ吹く風。

 藤次郎にとって吉原は、金銭では買えぬ「粋」と「情」の奥深さを探る修練の場であった。

 女をただの慰み者と見る者も多いなか、彼はその所作、言葉、感情の機微にこそ肉体以上の価値を見出していたのである。

 それは商人としての本能、脈々と父や祖父から受け継いだ血のなせるものだったのかもしれない。

 彼は誰に言われることなく知っていたのである。

 同じ金をかけるものでも、やりようありようでいくらでもその価値はかわるのだと。

 この吉原という化外の地というのは最も端的にそれを垣間見ることができる場所なのだと。


 藤次郎にとってここは真に価値あるものを見出す感性、商いものの本性を問う場でもあった。


 もちろん、家業を蔑ろにしているわけではない。

 時に番頭たちが舌を巻くような洞察を見せることもある。

 だが、ひとたび吉原から誘いの声がかかれば、彼は迷うことなくその世界へと身を投じるのだった。



 ささ、こちらへ。



 茶屋の奥から小走りに駆け寄ってきた若い衆に先導されるまま、いつもの席へと腰を下ろす。

 湯気の立つ上等な茶が手早く差し出される。

 目の前で甲斐甲斐しく佇む、委細承知と言わんばかりのにやついた顔。

 藤次郎は一口、茶を含んだ後、いつになく前口上の世間話もなしに静かに目的を告げた。


 夕霧太夫。

 いまさら言葉にせずとも、阿吽の呼吸で互いにわかり切った相手である。


 何せ彼女を指名するのはすでに三度目。

 『初』も『裏』もこなし済み。


 彼女がとある大人と江戸中に響き渡るほどの浮名を流したのはつい三月ほど前。

 本想いと、周りがうらやむばかりのお熱っぷりが口さがない江戸っ子たちの間で大変な評判になった。

 なればこそ、藤次郎は太夫を抱きたくてたまらなくなったのである。

 本想いの間夫(まぶ)がある女だからこそ、どれだけ大枚叩いても一晩過ごす価値があるはずだと。


 初会では顔すら見せず、背を向けたまま終始した。

 裏ではようやく言葉を交わしたが、心を許す様子はなかった。

 しかしその無言の中に宿る微かな感情の揺らぎに、藤次郎は手応えを感じていた。

 金で買えぬ誇りを守りながらも、どこかで揺れている。

 そんな人の本性ともいうべき『真』に触れるのが藤次郎の願いだった。


 そうしてもはや間も無く見受けも近かろうと、通いに通ってようやく本願成就相成ったのが今宵と。


 ゆるゆると杯を傾けながら待つことおよそ一刻。

 夕霧はついに水月の座敷に現れた。

 白く透き通る肌、しっとりと濡れた瞳。

 そこにある微かな憂いと諦め、許容の光。



 今宵もお運びいただき……。



 その声は、鈴を転がすように耳に響いた。

 藤次郎は銚子を手に取り、彼女の盃に静かに酒を注ぐ。


 夕霧はわずかに口元を綻ばせた。

 その微笑みに、心の奥底で微かに芽生えた親愛の気配がにじんでいた。


 別に心を捧げたわけではない。

 確固たる想い人が自分にはいる。


 だけど抱かれることもやぶさかではない。

 今ひと時、吉原の女として相手をするだけには身を預てもいい。


 そんな女郎ゆえの割り切りと諦観がまざまざと藤次郎に伝わってきた。

 最低限の情と、やり切れぬ怨念に彩られた玄妙な在り様。


 やがて夜が深まり、いよいよ床に入る時が訪れる。

 夕霧の指先が震えながら衣を解く。

 その姿に藤次郎は、本命の男を想う葛藤と覚悟を確かに見とおす。


 最初は想い人への義理立てがあった。

 感じまい、至るまいと欲するいじましい戦いと抵抗があった。


 ああやはりどうしてもくやしいと。

 堪らないと。

 割り切って捨て去ったはずの俗情が蘇り、また己を苛む浮世の業に。


 小指を噛む横顔の美しさ。


 それも虚しく身体の本能に流されていくと、今度は受け入れと変質が始まった。

 もはや乱れるのが避けられぬならばと、目の前の男を書き換えて愛する間夫に抱かれていることを夢想しているのが明らかだった。


 反り返る背筋に、捩る柳腰。

 白く赤く色が映える、しのつく柔肌。


 そうして齎された夕霧太夫の激しい反応と、感情の爆発。

 崩れるままに、跳ねるままに。

 心も体もどこまでも。


 何も憚るものもない可憐な雄たけび。

 女の存在そのものが上げる魂の絶叫。


 やがて至る忘我の果て。

 己を金で買った男に縋りつく力の強さ。

 三千世界を超える怨情の確かな感触。

 すすり泣き。


 一切合切が終わった後の静かな空虚。


 朝もやの中、藤次郎は水月を粛々と後にした。

 残されたのは色町が目覚める前の胡乱な空気と、恋情に燃える女の残像。


 藤次郎はこれまで垣間見たものを反芻しながら、仲通りの砂利を踏んでいった。

 世間並には莫大なものだろう費やした金など、些末なものでしかなかった。




 了

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