第36話-ユリアとユードーラとローグディーン(ノンナ視点)

「ノンナさん、サンディさん、マクシム・ソフォスアクシ卿。お呼び立てして申し訳ありません」

 

 フォートハイト伯爵・ドナルドが立ち上がり、一行を迎えた。

 ノンナが初めて足を踏み入れた伯爵邸の執務室には、エリゼーヌの支配の痕跡と、それを塗り替えようとする新たな空気が同居していた。

 

 安楽椅子を勧められ、腰掛ける。

 

 打ち合わせどおり、ノンナが代表して一礼し、口を開く。

 

「父上、本日はお招きいただきありがとうございます」

 

 室内は機能的で、装飾はほとんどなかった。

 しかし、壁や窓際、書き物机の周囲には、かつて華やかな装飾がしつらえられていた痕跡がかすかに残っている。

 

 ノンナは過去視を封じていたが、あちらこちらにエリゼーヌの残り香を除去した傷跡を感じ取った。

 

 部屋には、伝統的スタイルの上質な家具と、堅実な造りの執務用家具が置かれていた。

 ――きっと……あの人が来る前に若い頃の父上が選んだのだろう。どこか、私にも通じる好みだ。

 最近になって、ようやく好きな調度を部屋に置く楽しみを知ったノンナは、そう思った。


 カーテンは上質だが、最近の流行の柄ではなく、わずかに色褪せていた。たぶん、エリゼーヌがこの家に来る前から使われていたのだろう。

 

 マクシムがノンナに励ますような目配せを送る。

 マクシムの視線は、やがてドナルドの髪色へと移った。ノンナとまったく同じ色の髪だ。

 

 ドナルドの隣にはロルウンヌ男爵、元子爵のセオドアが控えていた。


 ***

 

 国王から双子に賠償金が支払われた。名目は「配下の貴族への監督不行き届き」だった。

 その財源には、旧ロルウンヌ子爵領の今後の収益が充てられる。

 ロルウンヌ子爵家は処分が決まる前に、領地を王国に返上した。

 先代領主の策謀がきっかけで虐げられた者たちへの賠償に、彼とその息子が築いた豊かな土地の利が用いられる。皮肉な結末だった。

 

 その後、ロルウンヌ家は領地を所有しない男爵家に降格した。商会経営は規模を縮小して続けている。

 当主セオドアはソフォスアクシ公爵家の寄子となった。

 そして、寄親の命で、同じく寄子となったフォートハイト伯爵家の代官として働くことになった。

 ほぼ無給に等しい激務の任だが、セオドアはそれを朗らかに受け入れていた。

 

 ドナルドは、感情を失ったままの十数年間、帳簿を整え、粛々と領地の内政を担い続けた。


 セオドアがこれから担当する対外交渉や人間関係は、今まではエリゼーヌと家令が担っていた。

 

 セオドアは、公爵家への報告でこう語っていた。

 

「妹は、伯爵家を繁栄させたかった。つまりそれだけ、ドナルド様への執着が強かったのだと思います」

 

 関連の書類には不正ひとつ見当たらなかったことが、そう思った理由だったとのことだ。

 

 エリゼーヌに従っていた使用人たちは解雇された。現在はセオドアの商会から信頼できる者が新たに雇われている。

 

 ノンナとサンディにとって、「父上」という呼び名には強い抵抗があった。

 だが、セオドアの一言が、双子の背を押した。

 

「あなたたちがそう呼べば、エリゼーヌはきっと悔しがる」

 

 そう言われて、双子はドナルドを「父上」と呼ぶことにした。

 それは、ささやかな復讐の形だった。


 ***


「ノンナさんたちと話すのは、今日が初めてだね。ユリアのお腹にいたときは、毎日話しかけていたよ」


 静かな語りに、双子は思わず息をのんだ。

 予想どおり、ドナルドの態度は淡々としていた。

 けれど……エリゼーヌの自己満足のために人形のように隠されていた父親が、今、こんなふうに話している。

 ノンナは胸の奥に満ちる安堵を感じ、そっと息を吐いた。

 

「精霊眼の子はユードーラ、対の目の子はローグディーンと呼んでいた」

「……鑑定魔法で、能力と性別が見えていたのですか?」

「その通りだ」

 

 どちらも聞き慣れない古風な名だった。サンディがこっそり眉をひそめる。

 

「サンディさんという名は、ドンネステ博士がつけたのかい? 私は、彼の教え子だったんだよ」

 

 その一言で、サンディの表情が変わった。

 儀礼的な笑顔が、心からの笑みに変わる。

 

 ドナルドは、ノンナの名には触れなかった。

 ただ静かに言った。

 

「ノンナさんの目は、ユリアにそっくりだ。ユードーラ様……ユリアの曾祖母ひいおばあさまも、精霊眼の使い手だった」

「アウレスピリア家に伝わる力、ということですね」

 

 ノンナが応じ、マクシムは黙って手帳に記録を取っていた。

 

 ノンナが尋ねた。

 

「父上が、修道士になられると伺いました」

 

 ドナルドはうなずいた。

 

 「申し訳ないが、私が本当に愛しているのはユリアと、あの子たちだけだ。あなたたちのことは、尊敬できる若者だとは思っている。だが……それ以上の情を、私は持たない。だから、俗世を捨てて、隠遁したい」


 穏やかな表情に反して、声はどこか冷ややかだった。


 「ある日を境に、感情はすべて死んだ。思い出す気力も、湧かなかった」


 ため息をつき、無表情のまま続ける。


 「淀んだ魔力が、あの女から放たれると、身体に変な熱がこもる。四肢にしびれが広がる。私はいつも、そのとき寝台に横たわっていた」


 ノンナは、ぶるっと身を震わせた。


 ――私は魔力や生命力を奪われて、それなりに辛かった。でも父上は、感情を奪われたうえに、伯爵夫人が自分勝手に加工した愛情を押しつけられていた。


 ドナルドもきっと、とても辛かったのだろう。そう思えた。

 ドナルドは、漆喰を塗り直したばかりの白い壁を、うつろな目で見つめた。


「気がつけば、あの女がそばにいた。私は完璧な夫を演じ、娘に会うたび『リリアーヌ……真実の愛の結晶』と唱えていた……心は死んでいたが、義務は果たしていたよ」


 その語りに、かすかに夜会のときの虚ろさが戻る。


「ここにも、あの女たちの肖像画がいくつか掛けられていた。幸い、セオドア様が取り払ってくれた」

 

 壁を指さす。その手の動きさえ、虚ろさに引きずられ人形じみていた。

 

「女は……毎日まとわりついてきた。詳しくは……忘れるようにつとめていた」

 

 まるで、耳元で鳴く不快な虫の存在を思い出すような顔になる。

 

「娘とは……いつからか週に一度、食事をするだけになった。私は完璧な笑顔で家族サービスをこなした。あの断罪の日も、同じだった」

 

 しかし、突然、ドナルドの表情がぐしゃぐしゃに崩れる。

 

「セオドア様が真実を聞き出したあの日、死んでいたはずの感情が……動き始めたんだ!」

 

 こぶしを卓に叩きつけた。

 重い音が空気を裂き、机がわずかに軋む。

 

「媚薬で理性を奪われ、子種を奪われた。それだけじゃない……ユリアと、ユードーラと、ローグディーンを奪われた……!」

 

 双子とマクシムは、言葉を失う。

 セオドアがそっと、ドナルドの肩に手を置いた。

 

「もし、あなたの手で妹が死んでいたなら……それは、妹にとってそれなりに幸せなことだったでしょう。けれど現実は違う。信頼していた侍女に顔を焼かれ、痛みと悔しさにうめきながら生きていると聞きます」

 

 ノンナとサンディをじっと見つめる。

 

「だからこそ、おふたりは妹たちを忘れて、幸せに生きてください。それが、最大の復讐です」

 

 ドナルドの涙が、ゆっくりと止まり始めた。

 

 セオドアはため息をつき、打ち明けるように言う。

 

「……私は、美しく賢かった妹を、心の底から愛していました」


 ノンナたちに、恭しく最敬礼する。


「けれど、ノンナ嬢の力を通して……子どもの頃の彼女とは違う、変わり果てた姿を知った……絶対に許せません。たぶん、私も、幸せにはなれないでしょう」

 

 その言葉に、ドナルドはそっとうなずき、涙を拭いながら、かすかな笑みを浮かべる。

 ――父上も……あの人を愛していなかった父上も……同じだ。幸せにはなれない。

 ノンナはそう感じた。

 

「セオドア様、いろいろありますが、私はあなたを頼りにしています」

「はい、ドナルド様」


 しばらく一同は静かに座っていた。

 

 やがてサンディがためらいがちに、「父上にお見せしたい品があります」と切り出す。

 そして、持参していた包みを卓上に置いた。

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