2-e
声をレガシーシステムと呼ぶのであれば、恐怖についてはパンチカードとでも呼ぶべきだろうか。歴史を見れば、確かにそれほどの隔絶がある。恐怖が生命にもたらされたのは、自由な運動を獲得してから後、その運動を自己の安全の確保に使えるのだと気が付いた頃であろう。もしもこれが正しければ、億年という単位で数えなくてはならないほどに恐怖の歴史は古く、声の活用はあまりにも新しい。しかしこの仮定の『恐ろしい』ところは、仮定が真実ならば『パンチカード』という骨董品が現在生きる我々の生活に深く入り込んでいることを示し、人類の歴史が自然に対してあまりにも無力であるという単純な事実を突きつけることにある。
普段は理性によって我々が守られているこの無力感は、一晩が明けても尚、東條タクミを苛んでいた。初めの内は、外部感情の注入によって気分を持ち直そうとしたタクミ。しかし、注入した感情が抜けても無力感は衰えることなく、やがてタクミは学習性の新たな無力感によって感情を整えることを諦めた。彼は知らないことだったが、高級なVIRTUEシステムともなれば完全にシグナルの経路を遮断することによりこの手の無力感すらもちらしきってしまうことができた。しかし、標準仕様のVIRTUEを使う他ないタクミが知っても、余計に彼を追い詰めるだけだっただろう。
と言っても、タクミがいくら思い悩んだところで地球の自転速度は変わるはずもない。朝を迎えたタクミは、寝不足の頭で朝の支度をする。栄養調整食のバー型ビスケットを朝食代わりに取ると、何もせずにいるのが嫌だったこともあって足早に研究室へと向かうタクミ。昨日はユウスケが出張で部屋にいなかったこともあり、指導教官に礼を言うという『大義名分』を手に、タクミは学生部屋までたどり着いた。
いつしか焦燥感の皮を被っていた無力感に背中を押されたタクミがユウスケの居室を尋ねると、中に人の気配はない。機構の定める始業時間前とはいえ、出張などの用事以外では研究室に住み込んでいるような有り様のユウスケには珍しいことだった。
「なんだ、いないのか」
タクミは独り言をこぼしたが、「仕方ない」と続ける気にはなれなかった。迷子の気分になりながらも学生部屋へ戻ろうとしたタクミだったが、階段の手前でエレベータの扉が開く音が聞こえる。なんとなしに振り向くと、ユウスケが汗だくになりながらエレベータから降りるところだった。彼一人が降りたことで、エレベータの籠が僅かに上に跳ねたような錯覚を覚えるほどに、圧巻の巨体である。
「先生」と呼びかけるタクミの声に、ようやくユウスケはタクミの姿を見つける。
「ああ、東條くん。昨日は大変だったね」
重力理論の講義でも始めるのかと思うほどに歪んだストライプのワイシャツの柄が、汗で下品なほど艶めかしく照っていた。しかし、ワイシャツの柄の悲劇よりもタクミの注意を引いたのは、ユウスケの発言である。
「昨日って、高山さんとのチャットのことですか?」
驚くタクミにユウスケは笑って頷く。
「うん、夜の10時ぐらいだったかなあ。リョウくんからTELがあって、色々話したよ。あのSSD、捨てといてくれって言われたのすっかり忘れてたもんだから、怒られちゃった」
「まいったよ」と言いながらも嬉しそうなユウスケに、思わず気分が和んだタクミ。「アポを取っていただいてありがとうございました」と頭を下げる。タクミの礼に対し、ユウスケは「いいよ別に。昔なじみに連絡取っただけだしさあ」とどこか拗ねたように返す。ユウスケはその子供じみた性格の通り、独占欲が強い。しかし、タクミがそのことに気付くことはなかった。
「もし時間があるなら、部屋で少し話す?」
ユウスケが昼食に誘うような気楽さでタクミに問いかけると、タクミは迷いなく頷く。まとわりつく不安感を解消するため、誰かと話しをしたいというのがタクミの本音だった。
連れ立ってユウスケの居室へとたどり着くと、慣れた手つきで解錠し扉を開けるユウスケ。途端、中の冷気がタクミの顔を叩いた。乱立するタワーサーバーの要求に応えた結果だったが、ユウスケの排熱に関する問題への対処の側面があるのではないかという噂があったし、タクミも半ばその説を信じていた。
冷気とそれに付随する想起によっていくらか冷静になったタクミだったが、ユウスケに促されるままに薄暗い部屋の中へと入る。後ろでユウスケが扉を閉めると、暗がりの中でパワーランプや常夜灯のようなものが道標のように自己主張を始めた。しかし、それもユウスケが間接照明のスイッチを入れたことで目立たなくなる。そのことがタクミには物悲しく感じられた。
「キャンディどうぞ」
缶カラを差し出してくるユウスケの言葉に甘えて、一本のキャンディを取り出すタクミ。口に入れると、ビワの粘っこい甘味が口腔を蹂躙した。
「それで」と脈略なく会話を始めるユウスケ。話しながら手振りで椅子に座るように促すユウスケに従い、タクミは壁際のソファへと腰を下ろす。
「IDOLAを販売したいんだって?」
遠慮なく核心に踏み込んでくるユウスケは、あまりにも無邪気だった。ビワの甘み以外の原因で眉根にシワが寄るタクミ。しかし、原因はユウスケの無遠慮差ではなく、自分に対する恥じらいだった。
「ええと、最初はそう考えてました。けど、高山さんと話している中で考えがまとまらなくなって」
「ううん? リョウくんは『好きにして良い』って言ったって話してたけどなあ。何が問題なの?」
「高山さんは、なんというか『倫理』とか『信念』みたいなものを持つべきだと言っていました」
タクミは言い終わるが早いか、ユウスケは「なるほどなあ」と納得した顔になる。そして、気軽な調子で言った。
「あんまり気にしないで良いよ」
タクミが思わず耳を疑って声を漏らすと、ユウスケは慌てて続ける。
「と言っても、科学者倫理を気にしないで良いって話じゃないよ。たださあ、リョウくんが言う、いわゆる世間一般での『倫理』とか『信念』って研究にはあんまり必要ないんだよね」
ユウスケはでっぷりとした指を絡めて、退屈そうに言った。
「実験動物に苦痛を与えちゃいけませんみたいな科学の取り決めとしての倫理とか、理論を選ぶときに拠り所にする信念みたいなものはもちろん必要なんだけどさ。科学の歴史を背負って、だとか公衆に対する責任を十全にするため、みたいな倫理って成果が世に出たあとに必要ならやれば良いだけの話じゃない?」
「でも、科学者の行動規範には」
修士課程の中で科学者倫理についても学んでいたタクミが反論しようとすると、ユウスケは「もちろん」と強調して遮る。
「社会から求められてる姿勢を取る義務はこなさなきゃいけないんだよね。まあ面倒なこともあるけど、そこは言ってもしかたないもん。でも研究内容そのものとか、研究成果の発表に求められる倫理って、世間で言う倫理とは別物だからさ」
教え諭すように語りかけるユウスケ。確かに、実験のために昆虫の生理機能を遺伝子のレベルで狂わせたり、意図的にマウスにガンを植え付けることが世間の倫理に沿うかと言えば、難しいと言わざるを得ないだろう。しかし、それは研究者がその意図を明確に持っているからだ。と、そこまで考えてタクミはユウスケの言わんとすることに気がついた。
「だからさ、科学者は公衆の役に立つという前提を誓った上での話だけど、世間の倫理からは保護されてるんだよね」
納得しかけたタクミだったが、すぐに考え直す。
「でも、IDOLAの公開は社会の話ですよね。つまり、公衆だ。いくら関係ないと言っても、技術の『生みの親』が責任を持てないなら、誰が面倒を見るんですか」
「まあそうなんだけどさ。ぶっちゃけ、そのあたりの社会実装って人文の領分じゃない?」
あっけらかんと言うユウスケに、タクミは呆気にとられた。その表情に気付かぬまま、ユウスケは話を続ける。
「そもそも、科学技術が世間に出るときって問題になるのは技術が本質的に目指してるところじゃない、枝葉の部分がほとんどなんだよね」
そう言うと、口に加えたキャンディを一度引き抜き弄ぶユウスケ。扱っている会話の中身とその態度のギャップに、タクミはめまいを覚えた。
「例えば原発とかさ、科学技術の方がやるべきなのは安全に動いて安全に止められることと安全に置いておけることで、それらの要件を満たせば大電力が得られますよって話じゃない。だけど世間の問題になるのは、近隣の住民感情とか核燃料の廃棄問題とか災害対策とか、技術がアプローチできる話じゃない部分なんだよね」
そう言うと、ユウスケは心底迷惑そうにため息を付いて言った。
「正直、そういう話を科学に求められても困るんだよなあ」
「なら、社会に関することは無視しろって言うんですか?」
不満げにキャンディに噛みつくユウスケに、タクミは震える声で尋ねる。流石のユウスケもこれには気が付いたが、顔色も変えずに少し考えてから言った。
「無視しろというより、どうせ制御不能な部分なんだから、指針の勘定にはなるべく入れないほうが良いって感かなあ。科学の領分じゃないよ」
思わぬ言葉に動転したタクミは、混乱してソファの背もたれに体重を預けた。
「なら、先生にとっての科学者の倫理って何なんですか」
タクミが平静を取り戻そうと問いかけると、ユウスケは新しいキャンディを缶からの中から引き出しつつ答える。
「前に『恐れを乗り越えること』って話をしたと思うけど、大枠はそういうことかな」
「つまり」とユウスケは指を立てる。
「恐れっていうのは対象を『認知しよう』すること、そして、乗り越えるということは対象を『受け入れる』ことから始まる」
ユウスケが語る『心構え』の話に、タクミは冷や汗が吹き出た。ユウスケの語る『対象』とは眼の前に立ちはだかる自然そのものであって、人間を想定していないことが解ったからである。
「つまり、自然に対して真摯に立ち向かい、それを好悪なく受け入れること。僕は、それが科学の倫理だと思ってるんだよね」
「特に、好悪なくってところがミソかなあ」と笑いながら言うユウスケに、再びのめまいを覚えるタクミ。たとえ『Nature』については正しかったとしても、自然な態度の人間が人間に対してこれを実行できるとは、タクミには思えなかった。耐えきれずに、「ありがとうございました」と頭を下げるタクミ。戸惑いのあまりよろけながらも立ち上がったタクミに、ユウスケは質問を投げかける。
「IDOLAはどうするつもりだい?」
タクミは蛇女に睨まれた気分になったが、しばらく悩んでから一言。
「公開はします」
と言った。
ユウスケは「そっか、僕も公開したほうが良いと思ってたんだよね」と無邪気に言うと、「なにか疑問があったら、力になるから」と笑いながらタクミを見送った。
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