2-c
東條タクミがしばらく動かずにいたのは、考古学者が未知の文明の痕跡を見つけたであるとか、言語学者がどの系列にも属さない新しい言語の話者とであったであるとか、そういった感動によるものではない。単純に、IDOLAが何をするプログラムなのかが理解できなかったからである。
「メモって言うぐらいだし人に見せるつもりじゃないんだろうけど、最適化で導波管問題を解いてどうするっていうんだ」
新しく書き込まれたであろうファイルの前半には、導波管のチューニングであるとか配置についてのメモが残っているばかりで、最適化についての文言は殆どなかった。そもそも、最適化のための教材が何であるかすら書かれていなかったである。この有り様では、タクミを責めることもできよう筈は無い。1000行ほどあるファイルを惰性で眺めていくタクミ。流れる文字列をろくに確かめもせず読み飛ばしていたが、ファイルの終端にたどり着きスクロールが止まったことで文字列に注意を向ける。
「最終行は、と。『腹立たしいが、このIDLアルゴリズムを以降IDOLAと呼ぶ(ハナめ、余計なことを)。これに伴い、プロジェクトディレクトリを新規作成。旧版はアーカイブへ。』ね。仲の良さそうなことで」
自分以外に気配のない学生部屋が寒々しく感じられて、タクミは憎まれ口を叩いた。斜に構えたままメモを一行ずつ読んでいくタクミ。70行ほど読み進めたところで、スクロールバーが止まる。
「『神経パルス解析のDNNを軽量化。階層削減によって精度はわずかに落ちたが、影響は統計誤差より弱い』入力は脳の信号なのね。身体拡張の話なのか?」
30年ほど前にマッチョマンと呼ばれた外骨格が世に出て以来、肉体的運動を主とした作業に機械の補助を入れることは一般的になっていた。その流れの中、腕を増やしたりイルカのヒレを生やしたりといった『身体拡張』が流行した時期がある。しかし肉体の補助とは全く異なり、人間に元から備わっていない機能の学習コストはメリットにくらべて高すぎたために、数年と経たずに身体拡張の流行は急激に終わっていた。
「だから破棄されたのかねえ」
用のない技術と思いモチベーションの下がるタクミ。しかし、数行上の短い文章を見て驚き、固まる。
「『感情パラメータ部分の分離に成功』?」
メモをプロセスの裏に回し、ドキュメントらしきものを探すタクミ。作法に則ってdocディレクトリ以下に配置されたマニュアルの、APIの説明を見てタクミは笑みがこぼれた。
「これは、IDEAに関する研究なのか?」
IDEAは感情制御のフレームワークであるPSCHEの内、人間の脳信号から環状部分を抽出するため方法論である、Intent-Driven Emotional Articulationの略語である。PSCHEフレームワークは外部からの入力に対応するVIRTUEと外部への出力に対応するIDEA、そしてこれらの間の翻訳を行うEmotive Gateway OperatorおよびLatent Order Generation for Output Synthesisのセットで構成されている。
この内のVIRTUEやEmotive Gateway Operatorについては詳しいアルゴリズムが知られていたが、『感情の採取』と『感情の調理』に相当するIDEAとLatent Order Generation for Output Synthesisについては基礎原理が示されているのみで、詳しい方法論は各企業の秘伝のタレとなっていた。
「サイズが大きいな、LLMに渡そう」
興味を隠しきれない笑みで、タクミはコード部分をLLMに流し込み、解析を依頼する。数秒後に返ってきた回答に、タクミは目を見開いた。
「IDEAで、人体を模倣して声を出す。できるのか、そんなことが?」
LLMの回答を要約すれば、『原始的なIDEAシステムを用いた人間の喉の再現システム』であるとのことだった。半信半疑ながらも、resulutsディレクトリに保管されていた音声ファイルを見繕うタクミ。比較的新しくある程度の再生時間があるファイルを選び、個人端末を外部スピーカーへと接続する。
「あおまきがみ、あかまきがみ、きまきがみ」
流れてきた声に、タクミは目を点にした。もう一度再生してみるが、流れる声は同じ。どう聞いても、自分と年齢の近い少女が早口言葉を噛みそうになりながら話している声にしか聞こえなかったからである。次のファイルも再生してみるタクミ。
「ぶたがぶたをぶったら、ぶたれたぶたがぶったぶたをぶったので、ぶったぶたとぶばべああ!」
「噛んでる」と思わずつぶやくタクミ。おそらく、入力用データを採取した際の出力用フォルダの名前を、そのまま使ったのだろう。当たりをつけたタクミは肩透かしを食らった気分になりつつも、いくつかある子ディレクトリの中の一つから最も古いものを再生する。
「それじゃあ話してみて」
話しだしたのは、先ほどとは違う少女の声だった。歳は早口言葉を話していた少女と同年代だろうか。
「いきなりなによ」
平坦な声で喋ったのは先程までの少女である。
「ほら、出力がうまくいってるか、物理デバイスを経由してみないとね」
「どうせ何かの悪戯なんでしょ。まあ、いいけど」
少女の平坦な声は、いにしえのTTSソフトを思い起こさせた。
「頑張れー、ハナー」
ハナと呼ばれた少女は『ため息を吐く』と、息を吸う音が聞こえる。
「天の宮のお宮の前の飴屋に、あんまと尼が雨やどり、雨やむまであんまももうとあんま申す、あんま尼もみ尼あんまもむ、あんまうまいか尼うまいかあんまも尼もみなうまい、あんまもおもみまめめめめ! ああもう、なんで早口言葉なのよ」
最後まで早口言葉を言い切れずに苛立った声を上げるハナ。後ろで吹き出した少女が、笑いのこらえきれぬ様子で声をかける。
「物理シミュレーションなんだから、意図しない動作だって外から起こせるってところを確かめないとね」
「その機能、本当に必要なのかしら」
「必要、ひつよ」
そこで少女が録音を切ったのか、声は不自然に途切れた。学生部屋から人の声が消えても、唯一人の住人であるタクミは動けずにいた。
「今の録音、このシステムで作ったのか? 本当に?」
もう一人の少女の方はわからないが、ハナと呼ばれた少女の声、少なくとも早口言葉を言った後の声は肉声であるかのようだった。
「人間の声だった。いや、肉声に聞こえる声は珍しくないが、原理的な『肉声』、なのか? この『誰かの声』が」
肉声に聞こえる声を作ることはさして難しくない。かつてAI新法と呼ばれた法律が施行されてわずか3年後、既存の音声解析技術で現実的には見分けられない声のエミュレータが開発されたからだ。その後はいたちごっこである。技術による危害を技術で守ることを前提としたAI新法、その守る側の技術が悪意を持った技術の使い方に追いつけないことが明らかになり、人工知能技術に関する公衆の信頼は地に落ちた。これと同時期に発表されたIDEAアルゴリズムとVIRTUEシステムが市民権を得たのは、こうした背景からくる不安感と厭世感の影響も大きい。
このような歴史もあり、声や画像の生成は法によりライセンスを厳しく管理され、元データの提供に関しても肖像権の範疇として厳密に扱われていた。
「それなら、これは。IDOLAシステムは」
そのため、VIRTUEの感情制御の代替として行われるフィジカルインジェクションのための品目の中では、音声は高額な部類であった。ライセンス管理と、プレミアをつけることによる効果の増大を狙ったコンテンツだからである。
「金になる」
ただし、この法によって保護されるものは「コーパスによる学習」である。つまり、法が保護するのは音の断片まで『のみ』だった。
「『喉』は保護されていない。あくまで、保護されるのは声だ」
ドキュメントやパッチノートを見ながら、興奮するタクミ。しかし、ドキュメントを読むために集中することで、頭が冷える。
「いや、そもそもこれって新規技術なのか?」
タクミも修士課程としてそれなりの知識は修めていたが、網羅的に知った博学というわけではない。WWWで調べた限りはヒットせず代わりにギリシア哲学のページがいくつもヒットし、タクミは辟易としたほどだったが、企業の秘密情報までが流れているはずもない。
「権利問題とかになったらやばいんじゃ」
タクミがIDOLAの扱いに悩みながらドキュメントを読んでいると、メンテナーの中に見知った人物を見つけた。
「これ、先生の?」
リードメンテナとして書かれたメールアドレスは見覚えのないものだったが、残る二人のメンテナの一人は、タクミが指導教官のユウスケへ連絡を取る際、連絡帳から持ってくるアドレスと一致していた。
タクミはスピーカーと個人端末の連携を切ると、その足で端末とSSDを携えてユウスケの居室へと向かう。閉め切られた扉をノックすると、少ししてスピーカーから「どうぞ」と入室を促す声が聞こえた。薄暗い部屋の中からあふれる冷気にタクミの熱狂は冷めたが、尚もIDOLAに対する興味は消えない。挨拶をして室内へと歩み行ったタクミは、言われる前に扉を閉めると口を開く。
「先生、IDOLAってご存知ですよね?」
「イドラ、というとフランシス・ベーコンの『先入観』の? それとも語源の『偶像』の方かなあ。哲学は専門じゃないけど、名前ぐらいは知ってるよ」
哲学に興味のないタクミはユウスケの言った意味を初めて知ったが、言及はしなかった。
「強いて言うなら『偶像』の方だと思うんですけど、IDOLAという名前のプログラムです。Informed Duct-model Optimizedなんちゃらって名前の」
「イドラ、Duct-model、プログラム?」ぶつぶつと呟きながら記憶を探るユウスケ。呟くたびに口に咥えられた棒付きキャンディが上下に揺れて、赤ん坊がおしゃぶりを吸っているようにも見える。見るに耐えない光景をタクミが我慢していると、ユウスケは「ああ」と快哉の声を挙げて膝を打った。
「音響モデルのあれか。懐かしいな。どこでその名前を?」
「さっき頂いたSSD、アレの中に入ってたんです。メンテナーのアドレスの一つが先生のアドレスだったので」
そう言うと、ユウスケは遠くを見るように視線を上に向ける。
「そうか、リョウくんが置いていった子だったんだなあ」
「リョウ?」
とオウム返しに尋ねるタクミ。その声にユウスケは現代に連れ戻されると、驚いた顔で言った。
「あれ、docかmanに書いてなかった? 僕はハンドルネームで参加したけど、リョウくんもそうだったのかなあ」
「一人はハナさんで、もう一人はポチョムキンさんと名乗ってましたけど、ポチョムキンさんがリョウさんですか?」
「なんだいその名前、戦艦の名前からかも。そんな趣味があったとはしらなかったなあ」
笑いながら言うユウスケに、タクミは本題を切り出した。
「このIDOLAって発表済みというか、どこかの企業で使ってるんですか?」
あくまで平静に言うタクミ。ユウスケは難しい顔になって言った。
「少なくとも、僕の知る限りでは公表はしてないんじゃなかったかな。途中でリョウくん、ああ、リョウくんが博論のテーマに開発してたプログラムなんだけど、彼女がターゲットを変えちゃったからなあ。僕は公開すべきだって言ったんだけど、前園さん、これはリョウくんの指導教官ね、彼との協議の結果やめちゃったんだよね」
「それは、プログラムに問題があったからですか?」
「いや? そもそも僕が見た時点でほぼ完成したプログラムで、解釈と細かい部分のチューニングが主だったしね。理由は詳しく聞いてないけど、倫理がどうとかだったかな」
「前園さんとの倫理の話はどうも噛み合わなかったんだよなあ」と遠い目をするユウスケに、タクミは重ねて尋ねる。
「他のメンテナーの方が公開したかって解りますか?」
問われたユウスケは首を傾げて考え込む。そして、その姿勢のまま言った。
「可能性があるとしたら、主導してたリョウくんだけど、僕の知る限りその気はなさそうだしなあ。基幹技術の方ばっかり発表してるからね。気になるなら、アポ取ってあげようか?」
「ぜひお願いします」
タクミは勢いよく頭を下げてから、ユウスケに尋ねる。
「それで、そのリョウさんのご専門は?」
「ああ、感情のオブジェクト化だよ。IDEAだっけ? あれ作ったのも彼女だから」
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