夢と記憶の質屋

藍葉 今花

第1章 雨の日の出逢い

 雨の夜、僕がその不思議な店を見つけたのは、偶然だった。

 いや、本当に偶然だったのかな。今思い返すと、なんだか最初からそこに行くことが決まっていたような、そんな気もする。

 いつものように商店街を通り抜けようとしたとき、急に雨脚が強くなった。慌てて軒下に飛び込んだら、そこは今まで気づかなかった小さな路地の入り口だった。


「こんな道、あったっけ?」


 毎日この道を通っているはずなのに、こんなところに路地があるなんて知らなかった。いや、本当に毎日通っていたのかな。急にそんな疑問が頭をよぎる。僕の記憶って、いつも少し曖昧なんだ。雨宿りのつもりで少し奥に入ると、古い看板が目に留まる。


『夢と記憶の質屋』


 変な名前の店だな、と思った。質屋なら「ナントカ質店」みたいな普通の名前じゃないのかな。それに、夢とか記憶って、質に入れるもの?

 店の前に立つと、中からかすかに明かりが漏れている。窓ガラスは汚れていて中はよく見えないけれど、なんとなく人の気配がした。

「すみません」

 勇気を出して声をかけてみた。すると、奥からゆっくりとした足音が聞こえて、扉が開いた。

 現れたのは、不思議な人だった。髪は白いようにも黒いようにも見えて、顔には深い皺があるのに、どこか若々しい。年齢がまったく分からない。でもその瞳だけは確実に、とても深さがあった。

 その瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。なんだか見た覚えがあるような、でも思い出せないような、不思議な懐かしさ。まるで、ずっと昔に会ったことがあるような。でも、それはいつのことだったんだろう。

「いらっしゃい。雨宿りですか?」

「あ、はい。すみません、勝手に…」

「いいんですよ。雨の日は、みんな迷子になりやすいからね」

 迷子?僕は道に迷ったわけじゃないんだけど。でも、この人の言葉にはなぜか納得してしまった。声も不思議で、時に少年のように若々しく、時に老人のように深く響く。

「中で待っていきなさい。すぐに止むよ」

 店の中に入ると、思っていたより広くて、壁一面に棚が並んでいる。でも、普通の質屋とは全然違う。時計やアクセサリーの代わりに、小さな瓶や箱、光る石、古い写真立てなど、不思議なものがたくさん置いてある。

「これって何ですか?」

 一番気になったのは、薄紫色に光る小瓶だった。中で何かがゆらゆらと揺れている。

「ああ、それは初恋の夢ですね」

「初恋の夢?」

「そうです。17歳の女の子が持ち込んだんです。毎晩その夢を見て、朝起きるのが辛くなったから預けていったんですよ」

 店主は棚を指差しながら続けた。

「こちらの青い石は、5歳の時に母親と手を繋いで歩いた記憶。持ち主は大人になって、その温かさを思い出すのが辛くなったんです」

「この黄金色の箱は?」

「プロ野球選手になりたいという夢ですね。30歳の男性が諦めきれずに持ち込んだ。叶わなかった願いは、時に人を苦しめるからね」

 僕は震えるような気持ちで棚を見回した。一つ一つが、誰かの心のかけらなのか。

 僕は混乱した。夢って、預けることができるの?それに、他の人の夢を見ることもできるの?

「質屋って、普通はお金と交換するんじゃないんですか?」

「うちは違うんです。心のかけらと、心の軽やかさを交換する店なんですよ」

 店主は棚から別の小さな箱を取り出した。黒くて重そうな箱だ。

「これは、試験に落ちる悪夢。中学3年生の男の子が持ち込んだ。毎晩うなされて眠れないから、一時的に預けることにしたんです。そしてこの透明な瓶は、亡くなったおばあちゃんへの忘れられない悲しみ。この光る水晶は、医者になれたかもしれない未来の可能性ですね」

「預けるって、その子はもう悪夢を見ないってことですか?」

「今はね。でも、いずれ迎えに来るでしょう。恐怖も、時には人を強くしてくれるからね」

 僕は店の中を見回した。光る石、古い写真立て、小さなオルゴール。どれも普通の品物に見えるけれど、それぞれに誰かの心のかけらが込められている。幼い頃の記憶、大切な夢、叶わなかった願い、未来の可能性、忘れたい悲しみ…。

「僕も、何か預けることはできるんですか?」

 店主は僕をじっと見つめた。その瞳は、まるで僕の心の奥を覗いているようだった。

「君には、何か重いものがありますか?」


 重いもの。


 そう言われて、僕は胸の奥がぎゅっと苦しくなった。最近ずっと、なんとなく不安なんだ。家にいても、学校にいても、どこか居心地が悪い。まるで自分だけが違う場所にいるような、そんな気持ち。

 友達と笑っていても、心のどこかで「本当の僕はここにいるのかな」って思ってしまう。家族と一緒にいても、時々「この記憶は本当に僕のものなのかな」って感じることがある。

 でも、それを口に出すのは怖かった。変に思われそうで。それに、自分でもよくわからなかった。

「今日は見学だけにしておきます」

 店主は優しく微笑んだ。その笑顔は子どものように無邪気でありながら、同時に何処となく悲しみを含んでいるようだった。

「急ぐ必要はありませんからね。心の準備ができたら、いつでもいらしてください」


 外を見ると、雨が止んでいた。いつの間にか夕日が雲の隙間から顔を出している。

「ありがとうございました」

「いつでも待っているよ」

 店主はそう言って、僕を見送ってくれた。振り返ると、その人は扉の向こうでまだ僕を見ていた。薄暗い店内で、その姿がゆらゆらと揺れて見える。まるで蜃気楼のように。

 路地を出て商店街に戻ると、なんだか夢を見ていたような気分だった。振り返ってみたけれど、さっきの路地がどこにあったのか、もうよくわからない。

 でも、胸のポケットに何かが入っているのに気づいた。何か小さくて、金属のような感触。取り出してみると、それは古い真鍮でできた小さな鈴だった。

 鈴を振ると、澄んだ音が響いた。その音を聞いていると、なぜか心が少し軽くなったような気がした。


 家に帰る途中、僕は決めた。明日、もう一度あの店を探してみよう。

 そして今度は、僕も何かを預けてみようか。この胸の奥にある、名前のつけられない不安を。


 でも一つだけ気になることがある。なぜあの店主は、僕のことを知っているような目で見ていたんだろう。まるで、ずっと僕を待っていたかのように。

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